生きる意味について

嘗て私は自分の住んでいる場所の遠い昔に思いを馳せることがあった。それは、そこで起きたさまざまな史実とそれまでの半生を振り返る中で、あまり意識して顧みなかった自分自身の生き方について、いろいろな場面で思いを新たにすることがあったからである。

十七世紀初頭、ここ総社領内の地域一帯は度重なる内乱と自然災害のために荒れ果て、農民たちは深刻な水不足に悩んでいた。彼らは耕作地に必要な水を供給するために、いくつかの中小の川を合流させ、農業用水を確保しようと取り組んでいたが、満足のいく用水量としては限界があった。そして人口が増加するにしたがって、ますます水不足が深刻化する中で、新任の藩主、秋元長朝は総社領内の東端を流れている利根川から取水して、新たな築城に必要な濠の用水とともに、荒廃した農地に必要な灌漑用水路をつくるという壮大な計画を立てたのである。当初この計画について、彼は高崎城主の井伊直政に協力を求めたが、

「恰も雲に梯子をかけるが如し、何ぞ人力の能くすることを得んや」

と謝絶された。そもそもこの地域一帯は利根川の右岸よりも高い位置にある。したがってこの地域の地形上、利根川から総社領内へ取水することは不可能なことで、はるか上流の隣接した漆原領内から取水する以外方法はなかったのである。したがって、それには他の領地にまたがってくりかえし現地測量を実施しなければならないという事情があった。それにもかかわらず、最終的には井伊直政を通じて漆原領の白井藩主、本多豊後守にその了解をとりつけることができたのである。当時、そのような公共工事、特に農業にとって生命線ともいうべき水利権については、領主たちにとっては損得勘定以外にもいろいろと神経をとがらせるような思惑があったらしい。それでも彼は当藩主らから可能なかぎり協力を得ようとする中で、この計画を続行したのである。