スペインでの暮らし

さて、私は昭和十九年に旧制前橋高等女学校を卒業すると同時に前橋営林局に入局した。

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その最初の俸給日に頂いた給与の中から、ほんの少しではあったが、私はさっそく祖母に会いに行き、受け取ってもらった時の彼女の嬉しそうな顔をいまでもよく覚えている。

そして間もなく終戦をむかえた。

私は子供の時は非常に活発に動き回って元気なこどもではあったが、二十五歳を過ぎたころ突然に身体がだるいような感じがして微熱が下がらない状況が一カ月間くらい続いたことがあった。

レントゲン検査の結果、その時流行っていた結核ではないと分かったのは本当に幸いだった。しかし当時の医学ではまったく原因が分からないまま、私は局に三カ月間の休職願をだして市内のある病院をたずねることにしたのである。

その結果すぐに入院するように言われ、まだ若かった私はそのとき自分の命はあまり長くはないかもしれないと内心思いながら、その指示にしたがい直ちに入院することを、私は家族にも相談せずに決めてしまったのである。

その後病院では当時原因不明の厄介な病気に有効とされた抗生物質を含むあらゆる薬を試行していった結果、幸いにも奇跡的に病状はしだいに快復に向かって行き、その休職期間中に私は復職できるまでに回復したのである。

その後数年間、前橋営林局は林野庁の統廃合のあおりを受けた局の移転問題があって、その反対運動が局内外で起きていた。だが街中ではそうした動きにもあまり関心がないような雰囲気が私には感じられた。

そうしたなか、人々の娯楽は主に映画であって欧米の映画が上映されている休日の映画館はいつも満員だった。また当時の街中の楽器店やレコード店では新しく開発されたステレオの電蓄が置いてあって、アメリカのスイングジャズや歌謡曲がいつも大音響でこれでもかというくらいのボリュームで流れていたものである。

当時私がいつも行くレコード店ではほとんど同じ曲を毎日流していたが、いつしか自分好みの曲に関心が向くようになっていったのが、イヴ・モンタンの歌うシャンソンであった。それは実は私が入院していた当時、ベッドの上でラジオから流れてくる『枯葉』だったのである。

また敗戦から経済的にも立ち直りつつあった当時の日本で、私に強烈な感動を与えたのが映画『禁じられた遊び』だった。爆撃で両親を失ったポーレットが偶然親友となったミシェルの名前を叫びながら群衆の雑踏の中に消えて行く最後のシーンは、どうしても忘れることができない。

またその全編に流れる美しいテーマのアルペジオがいつも私の耳から離れず、私はどうしてもクラシックギターを習いたいと思うようになった。