「今、あなたとちょっとした散歩をできればうれしく思います、ジョルダーニさん。散歩のあと、宿屋に戻って……ぐっすり眠れるように……何か飲みませんか?」

この誘いに隠された意味を感じて、グリマルディは破顔一笑、直ちに自席のドアを開け、バンと閉め、車のフロント側を通って反対側に回った。一瞬、さもためらっているかのようなそぶりを見せた後、アンカはイタリア人と腕を組み、二人は道に沿って歩いていった。その道は、倉庫から遠くない岸にある舗装された遊歩道だった。

アンカはグリマルディの頑丈な腕にしがみついた。二人はところどころ照らされた歩道をゆっくりと歩いて行った。夜は静まりかえっており、遠くから通行車両の僅かな騒音と、停泊中の船上レストランから陽気な音楽の調べが聞こえてきただけだった。辺りは川の強いにおいで満ちていた。

十五メートルほど歩いたところでグリマルディは突然立ち止まった。アンカのほうに振り向き、まっすぐに眼を見つめた。左手で彼女の腰のまわりを抱きしめ、強く自分のほうに引き寄せた。それから彼はアンカをじっと見つめながら、彼女に口づけしようとした。しかし、アンカは次の瞬間に顔を背け、はにかみながら微笑んでそっとささやく。

「ちょっと待って、ジョルジョさん。今の正確な時刻は何時か教えてください」

グリマルディは、驚きのあまり身を引いた。いぶかしげに眺め、彼女がまだまじめに自分を見つめているのを確かめてから、チョッキの時計隠しに手を突っ込み、銀の鎖で結び付けられた懐中時計を引き出した。

「九時四十五分です。でもなぜ時刻を気にしているのですか?」

アンカは頷くだけだ。そして再び彼の眼を見つめる。彼女の顔に浮かんだ笑いは、今や尋常ではないものになっていた。先ほどまでの温かさと性的快楽の約束は顔から消え去っていた。その快楽でブルーノ・グリマルディはセルビアの首都の短い滞在をスパイシーなものにしようと思っていた。

「思った通りだわ」と、アンカがそっと言う。

「時間です」

「何の時間?」

眉をさすりあげながら、グリマルディが尋ねる。そしてその時突然、彼の顔は痛みでゆがむ。

「いや……」
 

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『私たちはみんなテスラの子供 前編』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。