一九一五年二月 イストリア半島

ヴリシェルは、しばらく黙りこくる。

テーブルの木の板の上にパイプを当て、それから吸い殻を灰皿に振るい落した。小袋から出したタバコを再びパイプに詰める。詰められた芳香タバコに火をつけ、二度煙を吸って、テーブルの向こうのアンカに向かってパイプを振る。

「さて、陽気な公の妻ヴァレリヤ─ちなみに、嫉妬深さで有名なかたですが─は夫と愛人の密会が準備されているという知らせを受けると、自分も旅に出ることにした。そのことを公は知らなかった。これらの情報を提供したのは、有名なアナーキストで、その時はロンドンにいたエンリコ・マラテスタの影響下にある連中だということが後々明らかになる。

マラテスタが暗黙の、あるいは明確な英国政府の了解を得て工作したかどうか、それとも他にパトロンがいて特別な目的があったかどうかは、明らかではない。

でも、確かに言えることは、ヴァレリヤ妃が情報の書かれたメモを受け取ったということだ。武器も受け取ったかについては、私は知らない。とにかく、彼女は透かさずウィーンからパジンまで列車で向かうことになった」

ヴリシェルは、続けて少しずつたばこを吸い、考え込んだ。そしてため息をついて話を続ける。

「バクーニンの影響を受けた若きアナーキストであり、汎スラブ主義者であるマラテスタとの、とある接触のおかげで、セルビアの諜報ネットワークは以上の全てを知り得ていた。オーストリア・ハンガリーの国家安全保障部署との協定に基づき、ウィーンに電報が送られた。しかし現地のスパイの対応は遅かった。ヴァレリヤはウィーンを離れ、後で明らかになったように、シュヴァンドヴァと同じ列車に乗車したのみならず、成り行きで同じ車両に乗り合わせることとなった」

アンカは、この話の結末がどうなるかを推測して微笑んだ。

「列車がブゼトの方向から駅に入ってきた時、私は自分の事務室にいて、プラットホームでは、二人の管区警備兵のうちのひとりであるボージョ・ローディチが警戒にあたっていた。この衛兵は、列車が停車して普段の乗り降りの騒ぎが始まるまでの間、パジン駅を闊歩していた。

ローディチが後で私に語ったことだが、この時既に自分の任務が終わる頃合までの秒読みをしていた。ところが、豪華な客車から銃声が聞こえ、そのあとすぐに悲鳴と、助けを求める呼び声があがった。ボージョは、自分の衛兵用サーベルをつかんで、客車に駆けていく。私も事務室から飛び出し、全ての発車・到着の停止を命じる。乗客たちがあわてて客車から逃げ出してくるのを見て、ローディチと一緒に突進し、女性の悲鳴が聞こえてくる客車の中に入った。

現場に踏み込んだ我々は、その光景にショックを受けた。高貴なご婦人が手にピストルを握り、そのピストルからはまだ煙が立ち上っていた。もう一方の、同じぐらい高貴なご婦人はコンパートメントに座っており、出血しているところを手で押さえていた。呆然とした様子で、叫び声をあげていた。

『すぐにこの女を逮捕しろ』

私はローディチに怒鳴り、彼は撃ったほうの女性を拘束した。その女は怒りをぶちまけて抵抗し、ドイツ語で悪態をついていた。

ローディチは女を列車から引きずり出し、駅の一等待合室に閉じ込め、ドアの前で警戒態勢を敷いた。乗客たちは駅の中で気が和らぎ、おしゃべりを始めていた。彼らは、貴婦人がもうひとりの女を撃ったことは知っていたが、その動機については知らず、ローディチに尋ねていた。しかしながら彼は、自分の上司が到着するまでは、発言することを頑として拒絶した。

私に自分の上司であるクレリチ市長に注進することを頼んだが、クレリチはしかしながら、ブリユーニにいて、市長の助役マリン・ベーゴが、市の衛兵ヨシプ・プリムシュを伴って駆け付けてきた」

アンカ・ツキチはスープを飲み終え、ウエイトレスの《おかわりはいかが?》という眼差しに首を横に振った。そして、ハンドバッグからシガレットホルダーを取り出し、長くて細い茶色のたばこに、ヴリシェルが火をつけてくれるのを待つ。ヴリシェルはそれから話を続ける。

続く

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『私たちはみんなテスラの子供 前編』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。