でも、それはぼくの手からするりと滑り落ちてしまって、もう元に戻すことのできない幸せ。そんな当たり前な幸せを維持する努力をどうしてぼくはできなかったのだろう。しなかったのだろう。

急にいたたまれない気分におそわれ、ぼくは伝票を握って席を立った。テーブルのジョッキにはビールが半分残ったままだった。

午後九時。部屋は静寂につつまれていた。廊下を歩く人の話し声がときおりドア越しに漏れてくるが、それも行きすぎてしまえば部屋はふたたび静寂の世界へと戻るのだった。

あくせく働いていた昨日までの日常が、はるか遠くのことに思われた。いま、ぼくがここにいることをだれも知らない。そして、ぼくがここでこうしていることのために日常が途切れたり、つまらぬ夜を迎えたりしなければならない人はだれもいない。

冷蔵庫からビールを取り出しグラスに注ぐ。ビールなど、いまのぼくにはただただ苦いだけのものなのに、こうしてひとりになってみれば、それでもぼくはビールを飲むしかないのだ。喉に落ちる苦みとともに、典子の顔がふたたび脳裡に現れる。

それは、最後に会ったときの典子で、そのときもぼくと典子はビールのグラスをはさんで座っていた。遠いむかしのことに思われた。でも、それはまだほんのひと月前のことなのだ。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『シンフォニー』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。