人種・民族差別

人間とは自己を客観的に評価することに弱い存在のようです。

自民族から他民族を見て、変な言葉を話す、変な文字を使う、変なものを食べる、変なものを着ている、その他諸々の変な文化を持つ、ということで、他民族を自民族より下に見て、軽蔑したり侮蔑したりします。

この場合、他民族から自民族を見るとどう見えるのか、という客観的視点からの評価は全く欠落しています。一度、この点に思いを致せば、自民族が他民族を評価したと同じことが他民族により自民族に下されていることに思い至る筈です。お互い様なのです。

文化・文明の善し悪しや高さや低さに絶対性はありませんから、どの文化・文明が優れているとか劣っているとかの普遍的な判断を下すことはできません。それを愚かにも、自民族の文化・文明を優位と見て、他民族を偏見し蔑視するなどは笑止千万というほかありません。

人間には、自己と自己にまつわる事柄に、他に対してわずかな違いの優位性を妄想しその妄想に溶け込み満悦するという変な性向があるようです。

フロイト(オーストリアの精神医学者)流では、「僅かな違いのナルシシズム(自己愛や自己陶酔)」ということになるのでしょうか。

我々はある人種・民族であることに誇りを持つのはいいことです。しかし、そうであれば、他人種・他民族の誇りも尊重しなければならないのは当然のことです。尊重し合うことからは争いは生じません。生じるのは敬愛と融和でしかありません。

我々人類が自身の属する人種・民族に生を受けているのは自身の力でも選択の結果でもありません。つまり、なぜその人種・民族に生を受けているのかに関わっているわけではありません。

我々は自身がこの宇宙にあって何者であり何処から来て何処へ行くのかも知らず、自身についてさえ何も知らない無知な存在です。気が付けば、私はたまたまここにいた、という存在にすぎません。

従って、どの個も自身の属する人種・民族について驕ったりその逆に卑下したりする立場にないことは明らかです。然るに、そのような者同士が、お互いに軽んじ合い迫害し合い、挙句の果てに殺害し合うこと迄起こっている現実を見ますと、人類が愚かな生命体に見えることこれ以上の悲しみはありません。