第1章 開始

それでは、これから正統解剖学実習に入ります、高本教授が高らかに宣言した。静かだが、良く通る声は広い実習室のそれまでのざわつきを一気に消し去る威厳を持っていた。正統解剖、最初から僕は疑問に思っていたのだが、正統でない解剖とは有るのだろうか。

教授の声が響きわたった。まず、奇特な善意を示された故人に、全員で黙祷をして下さい。

僕は素直に頭を垂れ、目をつぶったが、つい途中で、目を明けて周りを見回してしまった。ほとんどの者が、生真面目に頭を下げてジッとしていたが、僕のような何人かの不心得者が、目をつぶった振りをしてにやにや笑っていた。僕はそのうちの楠田(くすだ)と目が合って、楠田はえへらと笑いかけて来たが、僕は無視して再び目をつぶった。

はい、直れ。いかにも高潔な人格者という感じの教授の合図が、広い実習室にこだました。

目を開けると、防腐剤のためか、しみるような痛みが走って、涙が出続けた。ぼんやりした視界の中に、御遺体が横たわっている光景は、ふと現実ではない錯覚を与えた。

「それではこれから実習前の注意を幾つかしておきます。遺体の事はドイツ語でライヘと呼びます。実習書にも有るようにまずじっくりと体表観察を行って下さい。皆さん予習して来ている事と思いますが、下顎骨、乳様突起、甲状軟骨、鎖骨などですね。後で切開を入れる時の目安にもなりますのでよく確認しておいてください」