第二章 釣りもアレも人間は新奇好き

釣りの回数とナニの回数

古来より、「釣り好き」をして太公望という。
出典は司馬遷(しばせん)の『史記』である。

世を離れた「呂尚(ろしょう)」が渭水(いすい)の辺(ほとり)で魚釣りをしていると、周(しゅう)の西伯(せいはく)が来て、「我が亡き太公(父君)の言に、必ず聖人出でて周に至り、国を再興するであろう。貴殿はまさしく太公が待ち望んだその人、よって太公望」の故事による。

ついでながら、太公望は周の武王の軍師となり、殷(いん)を滅ぼし天下を統一した。
したがって太公望は偉大なる戦略家であって、釣り名人ではない。

タイコウボウと言う発音に、のどかで呑気そうな響きがあり、陽だまりで糸を垂れる穏やかな風景を連想させる。そんなことも重なって、「釣り好き」の総称になったようである。

実は「釣り師」を気の長い、呑気(のんき)者と決めているのは、釣りを知らない人たちの勝手な思い込みで、呑気者は釣り師に向かない。少なくとも、上手な釣り師には成長しない。魚がいるかいないか分からぬところでボケーと一時間も二時間も待っているようでは釣果は上がらないのである。

気の短い者は度々竿を上げ、餌を付け替え、打って返しに繰り返す。この行動が撒(まき)エサ効果となり魚を誘うのだ。

森秀人著『釣りの科学』(講談社)によれば、魚の臭覚は人間の数百倍もあって、魚は好ましい臭いに敏感に反応する。エサが魚の見えないところにあっても、臭いだけで集まってくる。エサを度々付け替えるとその度に臭いは強くなり魚は競(きそ)ってエサに集まってくる。これを「食いが立つ」と言っている。

釣れないからと直ぐ場所を変わるのもダメ、撒エサ効果が表れるまでじっくり待つことも大切だ。その見極めが上手な釣り師の極意である。

『釣りの科学』には我々の知らない話が他にも沢山ある。

中国ではミミズをわざわざ足で踏み殺し、それをエサにする。
潰した方が臭いが強いし、生きているミミズは動くので、魚が驚いて食いつかないと信じているからだ。

ところが日本では、くねくねと動く生きの良いミミズの方がいいというのが一般的である。

著者によれば、何れも正しいそうで、臭覚を重視するか、視覚を重視するかの違いに過ぎないそうである。