私の背筋にゾクッと冷たいものが走り、体がガクガクとふるえだした。亡くなった!? あの人が死んだ!……横浜のホスピスで?  ニューヨークじゃなくて、どうして!?

私はその包みの中身がわかった。だが、恐くてあけられなかった。私の頭の中の時計が、ギューギューと逆回りにネジを巻きはじめた。美しく、どこまでも果てしなく美しい、甘やかな過去へと……。ダリの絵のように時間がねじれ曲がり、狂おしくなり、私は両手で顔を覆った。そのまま前のめりに倒れ、静かにうめき、泣き崩れた。

私は長らく泣き続けていた。陽がかげり、そのうち部屋が暗くなり、夜のしじまが訪れたようだった。とにかく、この包みを今あけるわけにはいかなかった。明日から新しい人 生が始まるのだ。

私は電気もつけず、暗闇の中で手探りで睡眠薬を見つけだし、ペットボトルのお茶でゴクリと飲んだ。考える事が多すぎた。プーさんを腕にギュッと抱き、ブランケットを膝にかけて、私は眠りに落ちるのを待った。早く消えたかった。どこかで救急車のサイレンが鳴って、遠のいて行き、私の意識も遠のいて行った。

あれは二十一年前、一九九八年の五月だった。私は二カ月前の三月に大阪から転職して来て、神戸の元町に住んだところだった。新しい職場にまだ不慣れで、お昼は一人でゆっくりできる店を探していた。喫茶店『ココ』は、そんな私にうってつけだった。

私はいつも『ココ』で、ランチをとっていた。ランチといっても、ビターチョコレートケーキとブレンドコーヒーのセットで、誰もランチとは言わないだろうけれど、私のランチは毎日一人で『ココ』のケーキセットだった。

マスターがクラシック好きで、いつもクラシック音 楽が流れているのがご馳走だった。それに店内のしつらえも趣味が良くて好きだった。神戸元町商店街の本通りから道を一つ入ったはずれに『ココ』はあった。新聞社から近いが、ちょっとした穴場で、職場の人間に会う心配はなかった。

赤、青、緑、オレンジ色……それから何色があったかしら……綺麗な色ガラスのはまったステンドグラスの窓。大好きな窓。赤いビロードの椅子と、黒の机。『ココ』は、私が私に還れる場所だった。全てはここから始まった。

私は、あの日も、いつものように綺麗な窓を見上げる窓辺の一等の席に座り、コーヒー をすすっていた。手元には夏目漱石の『こころ』を開いて、一行一行読んでいた。店内は丁度ベートーヴェンの『運命』が流れていた。私の運命を暗示するかのように……。

客はまばらだった。全部うまったとしても十五人でいっぱいになる程しかない空間に、あの日、貴方は居た。もっとも、貴方に話しかけられるまで私は知らなかったけれど……貴方は居た。確かに居た。

私が見知らぬ男性に声をかけられたのは、あの日が初めてだった。貴方は突然、私の前に現れた。

「ここへ座ってもいいですか?」と貴方は言った。貴方の背が高く、真っ白なジャケットを着ていて、美しいステンドグラスの窓を背にしていたせいで、私は、どこかの西洋画で見た大天使ガブリエルのように思い、たじろいで貴方を見上げた。

「お嬢さん。ここへ座ってもいいですか?」と貴方はもう一度言った。私が頷くと、斜め後ろの席にいったん戻り、貴方は自分のコーヒーを持って来て、私の向かいの席に座った。