第3章 仏教的死生観(2)― 法華経的死生観

第2節 「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の菩薩行―宮沢賢治の場合

この章の初めに、「菩薩行」による人々の救済という利他の精神に深い意味を認めた人物として親鸞や日蓮を挙げた。日蓮は、菩薩行による末法の世の人々の救済と社会の改革に強い意義を見出し「王法仏法冥合(みょうごう)一致」を主張した。

簡単に言えば、「現実の社会・国家(その支配原理が「王法」)の中に仏教の理想を実現しよう」(末木文美士『明治思想家論』トランスビュー 二〇〇四年)ということになるのだが、明治以降、その日蓮の思想に共鳴した人物は多い。

例えば「八紘一宇」の造語者・田中智学(一八六 一~一九三九)、二・二六事件に連座した北一輝(一八八三~一九三七)、満州事変に関わった軍人の石原莞爾(一八八九~一九四九)などだ。

その田中智学が創立した「国柱会」に石原莞爾と同じく宮沢賢治(一八九六~一九三三)も大正9・一九二〇年に入会し、「今や日蓮聖人に従ひ奉る様に、田中先生に絶対に服従致します」と友人宛ての手紙に書いた(『新校本 宮澤賢治全集』第十五巻 書簡(本文篇)筑摩書房 ㉓)。

北原白秋(一八八五~一九四二)なども信奉した田中の発散する創造的な魅力については山口昌男が言及している(『敗者学のすすめ』平凡社 二〇〇〇年)。

ともあれ、田中や石原が東亜共同体の形成という政治的方向に進んだのに対し、宮沢賢治は科学と芸術(詩や童話など)の総合によって、身近な東北の人々の生活改善と魂の救済に向かったが、その彼の一生の理念は法華経の説く「菩薩行」にあった。その菩薩行の考えを賢治は、初めは生家の浄土真宗に対する篤信から得たようだ。