第4章 合目的的なる世界

第3項 合目的的世界×将棋

3 グローバル・スタンダード​

とかく結果にシビアな時勢にあって、競技者がファンから尊敬され支持される為には、強さを提示し続けなければならない。合目的的観賞に晒され危機に陥ったボクシングは、総合格闘技ブームが鎮静化したあと(主に興業側に事情があったようだが)、まさにその時に救世主の様に強いチャンピオンが幾人も現れた。

強いチャンピオンは、日本人のボクサーとして世界と闘い、制し、それを見てファンは“世界に通用する強い日本のボクシング”とともに、ボクシングの魅力を再び思い出した。ボクシングは、世界的スポーツであるがゆえに、ボクシングの内に於いて「日本対世界」という構図を描き、“ファンの喜ぶ強さ”を提示することが出来る。

ところで、将棋の源流はインドの「チャトランガ」にあるとされる。川の石が、その川の流れや地質に沿った必然の形状を取るように、「駒を対陣に配置し王様を取る」という大まかな目的を立てても、それに付随する制約(ルール)はチェスもシャンチーもチャンギも将棋もそれぞれに異なる。それぞれの地域の文化・思想・時感覚に即して制約の発展の仕方が異なったというのは面白い。

将棋とチェス、シャンチー、チャンギらは、チャトランガを父とし各々の地域性を母とする異母兄弟の様なものだ。それぞれを眺めると、今となっては父の遺伝子の面影よりは、生後の母の躾(しつけ)が色濃く現れた子供たちと言えよう。

その意味では、将棋には宿命的な“事後的ローカル性”がある。これらのチャトランガ異母兄弟を、現代の価値感覚によって再び統合し世界共通のルールを作ることは、将棋成立の経緯・本質からは離れるし、人々はもはやそれを将棋(の進化版)とは見ないだろう。

地域性の垣根を越えて(時に破壊し)普遍・共通のルールに統一する事で打ち立てられるグローバル・スタンダード。

サッカー、テニス、ボクシング、ベースボール。多くのメジャースポーツはグローバル・スタンダードに依って立つ。

昨年になるが、サッカーの元日本代表の宮本恒靖氏がボスニアの紛争地域にサッカーを普及させた事で“HEROʼs AWARD2017”を受賞された。地域を越えた共通普遍のルールを遵守させ、その中で楽しみ時に苦慮しながらも同じゲームを楽しむ事で経験を共有し、地域性に縛られた目線から生じる不信感や憎しみを和らげ、人々の心を融和させる。スポーツにはその様な善き効用がある。

反面、地域の伝統的競技をグローバル競技として認証させる為には、地域性に拘(こだわ)らず、国境を越えた通用性が要求される。将棋を“SHOGI”化するためには、かつての柔道(→“JUDO”)の様に、そのルールも在り方も、世界の視点から、多分に政治的な協議に掛けられる事になる。

将棋を頭脳スポーツと捉え、世界に普及させ、日本人棋士の強さを対世界の実績で相対的に高める、という考え方はありうる。

その為には、将棋における日本の影を一定程度薄める事が必要だ。サッカーと聞いて半数近い人が南米を思い浮かべるからこそ、例えばブラジル人にとってサッカーが我が国事であると思えるからこそ、サッカーはグローバル・スポーツの最高峰なのであり、U.S.A.が前に出過ぎているベースボールはグローバル・スポーツとしてはサッカーに到底及ばない(故に世界大会の参加国も限定され、盛り上がりに欠け、競技人口も今一つ伸びない)。

柔道もルール改正の試練を受け、JUDOにあっては日本人が拘り抜いてきた“一本勝ちの美学”をいったんは鞘(さや)に収めた。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。