第4章 合目的的なる世界

第3項 合目的的世界×将棋

3 グローバル・スタンダード​

やや皮肉ながら、日本色を薄めるには人工知能ソフトの存在は大いに役に立つだろう。人工知能の計算が現す数理は、成立するのに多分の時と共通の生活的体験を要する言語や文化とは異なり、国境を即時に容易に越える通用性がある。人工知能はグローバル・スタンダードとも相性が良い(お金・グローバル・人工知能→仮想通貨)。

また、予算や人材を思うとき、普及させたい地域に行ける棋士の数も機会も限られてしまうが、人工知能は、何処にでも常在する。

駒の表記を漢字はやめて記号化し、人工知能の数理を棋理とし、これを世界に広めれば、我々が英語やラテン語やイタリア人の気質を深く理解しなくてもすぐにサッカーを楽しむことが出来たように、比較的早く、ひいては広く、SHOGIは世界に受け入れられるかもしれない。

将棋の日本伝統も含んだローカル性を多分に残したまま日本文化を広めるのか、将棋をSHOGI化しグローバル・頭脳スポーツとして認証させるのか。

“遅く狭くとも、深く”か、“浅くとも、早く広く”か。

将棋を世界に戦略的に普及させるなら、そのいずれを主軸にするのかはハッキリさせた方が良いと私は思う。

ただ、後者を仮に選択したとしても将棋の場合は、日本発祥・発展の空手や柔道と異なり、異母兄弟の存在が問題だ。SHOGIが一定の世界的普及を見たとしても、「日本には将棋、ヨーロッパにはチェス」というイメージが払拭(ふっしょく)されない限り、“世界と戦う日本のSHOGIPLAYER”という盛り上がり方は難しいだろう。ヨーロッパ人は狡猾(こうかつ)だから、野球と同様に、将棋で日本人とムキになって張り合う事は無さそうだ。

以上の考察からは、棋士の威信の回復の手段として、将棋をグローバル・頭脳スポーツ化することで「日本対世界」の構図を作り、棋士の強さを現すことは困難に思われる。

地域性を色濃く持ち、その様式(プロセス)、競技者の人徳を重んじる点で、将棋はスポーツよりは相撲に近いと私は考える(勝ち負けも存する伝統芸能)。

例えばボクサーなら、勝ち続ける内は、マガジンを素手でまっ二つに引き裂き、交流を持たず良く知りもしない対戦相手を気の利いたパフォーマンスの一環として罵倒(ばとう)しても非難はされない。対して横綱は勝ちが積み重なるに連れ、その言動挙動は寧(むし)ろ厳に戒められる。

良いボクサーの必要条件には、一般に高い人徳までは要求されず、横綱にはその期待があるのだろう。日本人にとって“親近感を含んだ尊敬”が力士や棋士には持たれているからとも言えよう。その相撲界も、様式美をそのままに楽しめる人の数の相対的減少に伴い、様々な問題が立ち上がり苦慮を重ねている。

世界は、かつてのような寛容さを以て部分社会の存在を許容しない。合目的的世界は、競技者の価値を勝ち負けに現される強さに特化しない、複雑な価値基準と美意識を併せ持つ領域の存続を、容易には認めない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。