第一章

7

カフェは混んでいた。平日の午後にこれだけの人がいるんだ、と今日子は思った。河合紗栄子は昼過ぎだというのにビールを注文した。

そう言えば河合から聞いたことがあった。妻はアルコール依存症なんだと。今日子はレモンティーを飲みながら沈黙していた。何を話せばいいのかわからない。

紗栄子が煙草に火をつけた。煙をゆっくり吐き出しながら周囲を見渡す。

「この人たちは何を話してるのかしら? 子供のこと? ワイドショーネタ? ダイエットのこと? 化粧品? ねえ、何だと思う?」

今日子は首を傾げた。本当にわからない。

「恋愛話かもね。それとも……不倫?」

今日子のカップを持つ手が止まった。呼吸が浅くなる。

「ねえ、奥さんのいる男とセックスするのってどんな気持ち? やっぱり興奮するの?」

脂汗が出てきた。言葉は体の奥底に沈殿しており、肺からは空気しか出てこなかった。

「万引きする人と同じだと言うもんね。いけないことをするとアドレナリンが出るんだって。だから興奮するんだって。まるで薬物中毒じゃない。そうなの?」
「あの、奥様。夕方から稽古が──」
「まだ早いでしょ。あなた逃げ出すつもり?」
「い、いえ、そういうわけでは──」
「あなた、親いるんでしょ? 小さい時に親から教わらなかったの? 自分がやられて嫌なことは人にするなって。あなた、自分が何をやってるのかわかるわよね?」
「はい」と今日子は小さい声で答えた。
「で、どう思うわけ?」
「そんなつもりじゃなかったんです」

思ってもいない言葉が口から出た。言った当の本人も少し驚く。紗栄子は沈黙している。店のBGMが変わった。「サカリのついたメス豚の歌ね」紗栄子が吐き捨てた。

「あいつ言ってたでしょ。道徳、倫理なんてくそくらえ。世界には一夫多妻の国もある。ひとりの女しか愛してはいけないなんて誰が決めたんだ。とかなんとか。あいつの常套句ね。自分の下半身のだらしなさをごまかす詭弁。あなたも聞いたことあるでしょ?」

今日子は答えられなかった。確かに聞いたことがある。そして今日子に言った。出会ったタイミングが悪かったのだと。好きになった気持ちは止められないし、誰にも止めることはできないと。

「あなたに教えてあげる。あいつの詭弁のからくりを。顔を上げなさいよ」

今日子がカップをテーブルに置いて顔を上げると、紗栄子は目を細めて微笑んでいた。

「そもそも一夫多妻ってどうしてできたのかあなた知ってる?」

今日子は首を振った。

「一夫多妻って聞くと女性差別とか思い浮かべる人もいるけど、実際は原始的な女性に対する福祉制度なの。貧しい国にとっては現実的で合理的な制度でもあったのよ。むかしの貧しい国では平均寿命が二十歳を超えないところもあった。

病だけでなく、餓死、部族間の戦争、その他の事故。たくさん生まれ、たくさん死ぬ。子供を産んでもいつ夫が死んでもおかしくない。そんな世界では一生を夫婦共に添い遂げることが難しいの。幼子を抱えた女性がひとり残されたらどうなると思う? 子供もろとも飢え死にするかもしれない。

一夫多妻というのは、ひとりの有力な男に性関係と家事という労働と引き換えに養ってもらうということなの。女性にとっては家事を分担できるという利点もある。さて聞くけど、今の日本はそんなに貧しい? 社会的に必要? 合理的?」

知らなかった。そんなこと考えたこともなかった。