第一章

7

「それとね。いい? ここが肝心なの」

紗栄子は煙草を灰皿に押しつけた。

「たくさんの妻を持った男には責任があるのよ。公平、公正、平等に妻たちに接すること。守ること。妻以外の女性には手を出さないこと。ねえ。あいつは何の責任を取ってるの? 河合は誰に責任を果たしてるの? あなたとラブホテルに行って、キスしておっぱいやあそこをいじくりまわした手で、平気な顔をして家に帰ってきて、私の隣で寝て、触って、何食わぬ顔で娘と食事をするあの男は何の責任を果たしてるの?」

紗栄子の口調は熱を帯び始めていた。

「ねえ。確かに国や時代によって法律や規則は変わる。悪法だってある。でもね、みんな勘違いしてるの。道徳と倫理は一緒じゃないの。道徳というのは」

紗栄子は言葉を切り、泡のなくなったビールを飲んだ。

「私これでも大学時代に哲学を専攻していたの。尊敬していたのは池田晶子さんという人なんだけど、池田さんはある本の中でこう言っているの」

紗栄子はふと壁を見た。そして目を瞑る。

「外なる規範としての道徳は、常に、『べき』とか『せよ』とか『ねばならぬ』という、規則や戒律の形をとる。だから、それを行う者には強制や命令と感じられる。これに対して、内なる規範としての倫理は、自分の意志で『しない』。『悪いことをしてはいけないからしない』ではなくて、『悪いことはしたくないからしない』が倫理。つまりね……」

紗栄子は声を落とした。

「していいことと悪いことを自分できちんと決められる人が倫理観のある人っていうことよ。あなたにそれがわかる?」

今日子は紗栄子の言葉を頭の中で反芻していた。『していいことと悪いことを自分で決められる人。それが倫理観を持つ人』私のしたことは悪いことなのか? 人を好きになってはいけないのか?

「あなた、まだわかってないようね」

紗栄子が言った。

「人を好きになることはいけないことなんですか?」

逆に今日子は尋ねた。

「好きになることは悪いことじゃないわよ。感情は誰にも止められない。でもね、好きになったからって妻子のある人とセックスする? 私の気持ちは考えないの? 娘の気持ちは? バレなければいいの? あのね、よーく考えてみなさいよ。『どんなことがあっても、一生、君と娘のことは守る』とあの男は誓ったのよ。その私と娘に嘘をつけるあいつが、あなたには嘘をつかないと思ってるの? そのくらいわからないの? 自分は特別だと思ってるの?」

紗栄子は前傾姿勢になった。そして今日子に顔を近づけた。

「あいつ君島良美とも寝てるわよ」

瞬間、頭が真っ白になった。紗栄子の目が冷たく光った。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『永遠と刹那の交差点に、君はいた。』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。