第二章 伝統的テコンドーの三つの要素

・その他四つの型(現在の型番号二十︱二十三)について

ヨンゲ(漢字表記:淵蓋)(動作数49)

ヨンゲとは、高句麗王朝の有名な将軍、淵蓋蘇文(ヨンゲ・ソムン、六〇三―六六六年) の名にちなんでいる。淵蓋蘇文は、歴史上議論の多い人物であり、高句麗陥落の際の彼の人格と役割をめぐって二つの相反する意見が存在する。

一つは、淵蓋蘇文が中国唐軍から高句麗を見事に守衛したという見方である。もう一つは、彼が六四二年にクーデターを起こして高句麗の栄留王を殺害し、自分の甥である宝蔵王(統治期間六四二―六六八年)を王位に即かせたという見解もある。

六六六年に亡くなるまで、淵蓋蘇文は宝蔵王を使って 事実上高句麗の実権を握っていたと言われている。

淵蓋蘇文の死後、彼の弟と三人の息子の間で後継者争いが勃発し、王朝が弱体化する結果となった。そして金庾信将軍率いる新羅軍と唐軍が結束し、六六八年に高句麗は征服された。

韓国国内の伝統主義的な歴史家らは、こうした背景から淵蓋蘇文を独裁者だとし、 彼の残酷な政治政策が王朝内に多くの犠牲者を生み出したと解釈している。また彼の君主 に対する裏切りが、高句麗を滅ぼす結果になったとも主張している。

一方でこの型は、中国に対して自国を防衛した淵蓋蘇文の軍事的功績を讃えている。動作数49 は、淵蓋蘇文が安市城において三十万もの唐軍を倒し、中国へ撤退させた六四九年を表している。

ムンム(漢字表記:文武)(動作数61)

ムンムの名称は、第三十代新羅王、文武(ムン・ム、六二六―六八一年)の名にちなんでいる。彼は金庾信大将軍の甥であり、新羅が百済を征服した直後、王位に就いている。この型の動作数61は、文武が即位した六六一年の下二桁を表している。

文武の課題は、中国唐軍の支配から脱却することであった。唐軍は百済の征服を狙う新羅を軍事的に支援していた。新羅が征服されると、唐軍は百済に留まり、安東都護府を設置。新羅を含む朝鮮半島全体を支配しようとした。

そんな唐軍に対し、新羅は抵抗を繰り返し、ようやく朝鮮半島から唐軍を追い出すことに成功。六六八年、大同江の朝鮮半島西部を統合した。そして文武は、亡くなる六八一年まで統一新羅を統治している。

文武は死を目前にして、息子である神文王子に王位を譲って退位した。また彼は生前、このように言い残している。

「いつ何時も国王なしで国は成り立たない。息子に桶を持たせる前に、私の王冠を渡そうではないか。私の遺骨は火葬し、鯨がいる海へ散骨してほしい。私は大竜となり外敵からこの国を守護しよう」。

神文王は、父の遺言に従い、大王岩と呼ばれる朝鮮半島沿岸にある小島に散骨した。

ソサン(漢字表記:西山)(動作数72)

ソサンとは、李王朝時代の高僧、崔玄應(チェ・ヒョヌン、一五二〇―一六〇四年)の雅号である。崔玄應は禅師であり、「禅家亀鑑」など数々の重大な経典を生み出した著作家である。

「禅家亀鑑」とは、今日でも韓国の僧によって使用されている禅修行の指導書である。この型の動作数72は、弟子である惟政の支援をもとに、西山が僧兵隊を組織した時の年齢を表している。

一五九〇年代初め、日本の豊臣秀吉は、朝鮮に対して中国征服に協力するよう支援を要請した。しかし、朝鮮が拒否したため、日本は朝鮮に対する大規模な侵略を計画した。

一五九二年には、二十万もの日本軍が朝鮮へ押し寄せ、十分な備えもないまま壬辰倭乱の戦が始まった。日本軍による侵略が行われた時、宣祖国王は、十分な訓練も受けていない不甲斐ない軍隊に国家の防衛を任せ、都を逃れた。

自暴自棄になった王は、西山を呼び、僧を集めて武力行動を起こすよう頼んだ。そして西山の僧兵隊は、霊鷲山(ヨンチサン) の深い森に創設された興国寺(フングクサ)で軍事訓練を行い、一五九三年と一五九八年の二度にわたって、日本侵略軍排除に大きく貢献した。

写真を拡大 [図1]テコンドーの型と韓国の歴史年表