第二章 伝統的テコンドーの三つの要素

(十二)ケベク(漢字表記:階伯)(動作数44)

この型は、古代韓国時代の百済王朝の将軍、階伯(ケベク、?―六六〇年)の名にちな んでいる。階伯は、その軍規、名誉、勇敢さで知られている。

彼は、黄山伐(ファンサン ボル)の戦い(六六〇年)において、金庾信(キム・ユシン)将軍率いる新羅軍と中国王 朝、唐の連合軍によって殺害された。階伯は、この戦いにおいて、新羅軍五万人に対して たった五千の軍隊しか率いていなかった。

敗北前、階伯は新羅軍を五回も追い返すことに成功したが、黄山伐の戦いは新羅に対する百済の最後の抵抗となった。

階伯の敗北は百済 王朝の終焉となり、階伯の死後すぐ、百済王朝の義慈王も降伏を申し入れた。この型の演武線(―)は、彼の厳格な軍規を象徴している。

しかし多くの人々は、高句麗によるこの結束力の低い統治を真の三国統合だと考えている。また、この型の動作数39は、廣開土王が王位についた年、三九一の上二桁と享年三十九歳を表している。

(十三)ユシン(漢字表記:庾信)(動作数68)

ユシンとは、韓国の三国時代に終止符を打った新羅の大将軍、金庾信(キム・ユシン)の名にちなんでいる。型の動作数68は、朝鮮統一を果たした六六八年の下二桁を表している。

構えの姿勢は、通常とは逆の右側から抜かれた剣を象徴しており、これは国王の命令に従い、中国軍と共に自国と戦うことを決めたキムの過ちを象徴している。

六六〇年、新羅海軍と十三万人の唐軍の支援を受けて、キムは百済の首都サビを攻撃した。この黄山伐 の戦いは、七世紀において最も有名な戦の一つである。この戦いで、彼は百済の階伯将軍 を殺害し、王朝を征服した。

また六六一年に一度は失敗したものの、六六八年には高句麗 を襲撃し、打ち負かすことに成功した。

これにより三つの王朝がようやく一つとなったが、 これは南の統一新羅(六六九―九三五年)と北の渤海(六九八―九二六年)による南北時 代の始まりでもあった。

(十四)チュンジャン(漢字表記:忠壮)(動作数52)

チュンジャンとは、十六世紀の李王朝時代の将軍、金徳齢(キム・ドンリョン)の雅号である。キムは、体格は小さくとも、機敏で勇敢であり、戦において卓越した能力を発揮したことで知られている。

豊臣秀吉により日本軍が朝鮮侵略を行った一五九二年(文禄の 役)、キムと彼の弟キム・ドンホンは軍隊に入隊した。弟は戦死したが、キムは軍隊にとどまり、日本侵略軍に対してその卓越した能力を何度も見せつけた。

一五九四年、キムは宣祖国王によって王の使者に任命され、リホ将軍と名付けられた。

一五九六年、李夢鶴(リ・ムカク)が全羅道州にて反乱を起こし、リホ軍はその反乱を鎮圧するよう要請を受けた。キムは、主導者であった李夢鶴の死亡を確認すると、軍隊と共にその場から撤退した。

しかし、王に仕える嫉妬深い家臣によって、キムは反乱に関わっていたと訴えられ、投獄されてしまった。

その後、二十九歳の若さで冤罪のまま処刑された。左手で終わるこの型は、彼の卓越した能力が認められることなく、若くして偽証により処刑された無念を表している。

キムの死から六十五年、彼の罪は偽りであったとようやく明らかにされた。身の潔白は 証明され、官職としての地位も再び認められることとなった。

一六八一年、キムはその勇 敢さと忠誠心により、諡号として陸軍大臣の称号を与えられた。またその他いくつもの諡号が与えられ、キムへの追悼の意を表す神社も建設されている。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『人の道 伝統的テコンドーの解釈』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。