第二章 伝統的テコンドーの三つの要素

(十)クワンゲ(漢字表記:廣開)(動作数39)​

クワンゲとは、有名な高句麗第十九代王朝、廣開土王(クワンゲ・トワン、三七四―四一三年)の名にちなんでいる。

廣開土王により、高句麗は二世紀以来、再び東アジアの大国となった。彼は三十九歳の若さで亡くなったが、高句麗はその間、アムール川から韓江に及ぶ領土を全て征服した(この領土は、現代の韓国の三分の二の広さ、満州、ロシアのプリモスキー地方の一部、内モンゴルを含む)。そのことから、この型の演武線は、領土奪還と拡大を象徴している。

また、新たな領土の征服に加えて、廣開土王は現代のソウルに位置する百済の都市を占領し配下に置いた。これは、三九九年、百済による攻撃を恐れた新羅が高句麗に保護を求めて服従した後に起こっている。

しかし多くの人々は、高句麗によるこの結束力の低い統治を真の三国統合だと考えている。また、この型の動作数39は、廣開土王が王位についた年、三九一の上二桁と享年三十九歳を表している。

(十一)ポウン(漢字表記:圃隠)(動作数36

ポウンとは、高麗末期の文臣と学者であった鄭夢周(チョン・モンジュ、一三三七―一三九二年)の雅号である。一三六七年、彼は公人でありながら、国子監、後の成均館において宋明理学の先生となった。鄭夢周は、ウ王(一三六五―一三八九年) に忠誠を誓い、王もまた鄭夢周の幅広い知識と判断力を信頼していた。

一三九二年、李成桂(イ・ソンゲ)の五男、李芳遠(イ・バンウォン、後の太宗(テジョン))が鄭夢周のために晩餐会を開いた時、開城の善竹橋で暗殺されてしまう。李氏朝鮮の建国のために高麗を滅ぼした李成桂にとって、最後まで高麗王朝へ忠誠を貫いたため鄭夢周は邪魔な存在だったのだ。その時李芳遠は、高麗王朝への忠誠を辞めるよう鄭夢周に詩を詠んでいた。

「ああでもこうでも、それがどうした
万寿(マンス)山のつたが絡みついたからどうだというのか
我々もそのように絡み合い、百年までも栄えようではないか」

これに対し、鄭夢周は高麗への忠誠を表す詩を詠む。

「この身が死んで、また死に、たとえ百回繰り返し死に、
白骨が塵となり、魂がなくなっても、
王に対する忠誠心は、変わるわけがあろうか」

この型の演武線は一直線(―)となっており、これは鄭夢周の王と国家への揺るぎない忠節を表している。また彼が殺害された橋も象徴している。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『人の道 伝統的テコンドーの解釈』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。