飛燕日記

シャワーを浴びて化粧をした。ファンデーションを肌に塗り、唇を赤くする。鏡の中の自分は食品サンプルのようだった。鮮やかに、立体的に自分を盛って、人の食欲を煽ろうとしている。

身体のフォルムがやわらかく見える服を身に着け、待ちあわせ場所に向かった。

走り抜けるすべての車に、彼が乗っているような気がした。走行音が近づくたびに顔を上げ、減速しない車体に頭を下げる。

こんな世界でとはいえ、理想の男性がやって来ると思うと浮足立ったが、次第に、やはり来ないのではないかという予感がしてきた。むしろそのほうがいいのではないだろうか。

今日の夜のことは、誘いに乗って街角に立ったが、朝まで待ちぼうけを食らったという教訓を含んだ笑い話になり、これからもことあるごとに思い出すのだ。そして酒を飲んだはずみで、ふと人に話して笑われる。それでいいんじゃないだろうか。

だが、強い明かりが射して想像の鎖が断ち切られた。目をすがめて見ると、光の向こうに黄土色になったタクシーの車体があった。心臓が掴まれたように苦しくなる。彼だ。

ドアが開くと、ビーチサンダルをひっかけた足が出てきた。骨ばった足が短パンから伸びている。『チルアウト』と英語で書かれた半袖をぱたつかせながら、ひげの男性が降りて来た。

肩幅はあるように見えたが、胸元はハンガーにかけられたシャツのように薄い。人違いかと思ったが、彼はこちらに声をかけた。やあ、と右手を上げる。

「今日は、仕事終わりなんですか」

彼はテーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。ああ、と曖昧に漏らす。高い黄緑色の声はすでに酒気を帯びており、眠気と戦っているようだった。

「仕事のあと着替えて、そんで同僚たちと飲みに行ったって感じ」

写真と容姿が異なる人間がなにを言っても怪しく感じたが、見た目以外の真偽を確かめるすべを持っていなかった。

この世界は信用だ。まったく顔も名前も知らない人間同士が会うのだから、嘘が一つでもあれば、その他すべてが信用できなくなる。それでも彼の言うことを信じるしかない状況は、中身の見えない箱に手を入れて賭けをしているようなものだった。