飛燕日記

おそらく、私が言った「そういう人」を「交際経験のない女性」と解釈したのだろうが、残念ながら男性ばかりの職場だった。みんな童貞だ。

近ごろ、私が退勤するのを駅で待ち伏せている二十七歳の先輩もそうだった。学生のころから家の事情で恋愛をしたことがなく、今もまだないと言った時の顔をよく覚えている。少し恥じらいながらも、誇るような顔。

その時も反応に困ったのだが、彼の表情は間違っていないと思う。どんなに女性に慣れた男性でも、最初はそうなのだ。生まれたころから腰につけているそれをいつ手放すかの違いで、ともに歩む時間が長ければ長いほど、そこら辺の犬にやってしまうのは惜しいような気もしてくるのだろう。愛着がわき、宝もののようになるのかもしれない。

そこで店員が入って来た。対面の席が用意された個室で並んで座る私たちに、一瞬だけ視線が固定される。別に私はなにも悪いことはしていなかったが、なんとなく、わざわざ皿を受け取ったのだった。

「このあとカラオケ、行かない?」

店を出てすぐのところで、彼は自分の腕を洗うように擦りながら言った。

「ごめんなさいね、明日早くて」

言ったあと、彼がわかりやすくコンクリートに視線を落とすのを見て、少し申し訳なくなった。二人きりになるのがいやだったわけではない。その証拠に、カバンに入れたアルミの名刺ケースにはゴムを補充していた。

ただ、カラオケに行けば一曲ぐらいは歌わないといけなくなるだろう。耳が弱いため驚くほど音痴なのだった。

その時、彼の肩が揺れはじめた。生地が擦れる音。見ると、腕を激しくかきむしっていた。まぶたに埋もれた小さな目はアスファルトを睨んでいたが、実際はなにも見ていない。表面張力を越えた水があふれるように、彼の中のバランスが崩れてしまったのだ。

「そういえば、この近くに洋菓子屋があって」先輩から聞いた話を奇跡的に思い出した。

「駄菓子みたいな値段で、お土産用のお菓子が買えるらしいんですけど」

彼が顔を上げる。女性経験がないと告白した時の、善良で内気なたっくんに戻っていた。行こう、と短く返事する。