本来ここにこそ平等が来なければならないはずであるが、住み分けが否定された場合、結果の平等が重視されるため、権利の平等重視であれば実現するはずの「個性=存在」がほぼ意味を失ってしまう。

住み分けは愛の成就のための絶対条件であるため、究極のロマンティシズムの体現による理想の実現を視野に入れる彼にとっては、やはり孤立の恐怖を日々感じながらも、「戦う」を選択せざるを得ないのである。

信仰は愛と同義語であり、故に神前で二人は結ばれることとなる。そしておそらく、ここにそれ以外の選択肢はない。信仰を知る者が客体として存在しているからこそ成り立つ仮説であるが、天使による祝福がもたらす歓びがどうして彼らを理想へと導かないであろうか?

現世的であろうとすればするほど、私たちは慣習という言葉で表されるべき主体としての喜びに染まっていってしまう。そして、そこに多くの偽りが混じっていることを認めながらも、比較による損得の受益者になることも可能であるために、特に若い時分はそこから容易に離脱できないのだ。

このように考えれば、私たちに最も相応しいのはシェアリングではなくデリヴァリング、つまり皆で分け合うのではなく、個性の発揮による相克に打ち勝った者たちによって行われる価値の分配。言うまでもなく、そこでは信仰が絶対条件となるが、しかしそれによって私たちはチャリティーの精神を学ぶこととなる。

個性が存在であるならばその個性が自律可能な領域が確保されなければならない。そして、そこでは権利が尊重されなければならないのだ。権利とは排他的である。同時に、権利とはしばしば神聖なものである。彼らの子以外は閨房への立ち入りは決して許されないのである。

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