第1章 直面する課題の概略~人生100年時代前夜

2.定年退職後を老後と呼ぶ時代は終わった

人間は20万年前の誕生以来、人生の役割の意味は比較的はっきりしていた。何故かというと50年以下の寿命では子供を産み育てる種族保存行為と、寿命が一致していて、一つの人生だったからである。

原始・古代時代は、男は外へ行き狩り、女は家にいて子育て、中近世以降は、男は百姓・職人、女は家庭で子育てと生まれた時からほぼやることは決まっていた。

また労働活動をする場所、山とか畑とか工場、いわゆる「目に見える働き場=器」がすでにある状態であったのだ。また親=メンターが明確に子供に将来やる仕事を指示したので、ある意味子供は迷う必要がなかった。

このように目に見える働く場所が、人生に生まれた時からある状態、器が備わっている状態、言い換えればそれは「あてがいぶちの人生」なのである。

種族保存期間と寿命期間が一致している人生、なおかつ人生を生きる意味が明確な一つの人生、それを我々はつい最近まで、75年前まで生きてきたのである。それが突然もう一つの人生、第2の人生が現れた。

60歳以降の第2の人生は当然、あてがいぶちの器は見えていない状態。国家、社会体制も第2の人生の人々に対しては、あてがいぶちの器の用意は間に合っていない、準備もしてはいない。

あてがいぶちの器の例を2つあげると、一つは「働きたい人は働ける制度づくり」だ。

単なる定年後の再雇用制度あるいは定年延長ではない就業コンテンツが作れるか? 個人の能力に合わせたポジショニングを構築できるかどうか? その中にキャリアパスを設定できるかどうか? マネジメント業務を付与できるかどうか? 

100歳の部長、課長がいてもいいのではないか。国家、社会が用意する第1の人生の20歳前後の学卒者に対し、社会は新規一括方式の募集を用意しているが、第2の人生の60歳の求職者に対しての新規一括募集を私は知らない。

二つ目は「働きたくない人は非労働活動で生きていける社会」だ。

第2の人生に向けては様々な価値観があり、働きたくないことも一つの価値観である。

こう見てくると60歳以降の人生、つまり第2の人生は「途轍(とてつ)もない世界」ということになる。途轍もない世界とはかつて見たことも経験したこともないとんでもない世界という意味である。

途轍の途とは道の跡のことである。轍は訓読みでワダチと読み車輪のことである。英語ではキャリアという。

つまり「途轍もない世界」とはキャリアの形跡のない世界、すなわち、「あてがいぶちのない世界」ということになる。転機とは今の状態から次の状態に移る時点でありフェーズ(局面、場面)が変わる時期のことである。

我々には様々な人生の転機がある。高校・大学に入学したとき、学校を卒業後ある企業に入社したとき、結婚したとき、子供が誕生したときなどである。その中でも定年退職は人生最大の転機だ。