第二章 人生の変わり目

転職(四十二歳):大学から企業へ

大学で教えるようになって七年ほどして、私はいくつかの理由で、このままでいいか迷うようになった。まず、自分の将来の研究について、結晶構造解析はだんだん自動化され、研究者の能力に寄らなくなるのではないかという懸念。今でいうAI(人工知能)ではないが、計算機に答えを出させる直接法という新しい方法が使われだしていた。

私自身は、これから先は研究意欲が低下して、論文の数も減り、研究者としての評価は下がるのではないかと悲観的になる。

別の理由は、大学が財源の重点を基礎科学から応用分野へ移行して、地学科の縮小を提案したことにある。終身雇用資格(テニュア)取得が難しいかもしれない。子どもは三人、小学四年生、二年生、幼稚園生。大学からの報酬で十分な教育を受けさせることができるか疑問。

この懸念を解決して、次の人生へ進むきっかけを作ってくれたのは、この学科の卒業生パステルナークEric Pasternackだった。私は教えたことはないが、六、七年前に私が赴任した年に彼が出した博士論文の副査をしたので知っていた。

彼は石油会社の中央研究所に入り、出世して管理職に就いていた。私の懸念を理解してくれて、自分のグループに来ないかと誘ってくれた。転職を決意する。パステルナークとは、つい先日もメールの交換をした。彼は、今、自分の会社を作って、現役で活躍している。

実は、この転職に先立つこと三、四年、新しいことを始めていた。自分の研究室にマイクロコンピュータシステムを作った。1970年代の末、ちょうどマイクロソフトが生まれた頃である。

インテルの8080とかザイログのZ80の8ビットのマイクロプロセッサーが出てきたので、個人でもシステムを構築することができるようになった。このような新しい技術の黎明期に居合わせたことは、誠に幸運であった。

S100という規格のプリント基板で、演算・モニター表示・フロッピーディスク読み書き・プロッターコントロールなど、いろいろ組み合わせて一つのシステムを構築した。

オペレーティング・システムは、デジタルリサーチのCP/Mというのを使った。まだ、IBM‐PCやマイクロソフトのMS‐DOSなどができる前のことだった。

この経験は、石油会社の研究所に入ってから、さらに大きいディジタル・イクイップメントの16‐ビットのシステムのPDP/11や、32‐ビットのVAXを使って、石油ボアホールの超音波画像解析システムの構築をするのに大変役立った。マイクロコンピュータの経験がなかったら難しかっただろう。

転職の結果は技術的だけでなく、個人生活の面でも大成功。給料は2倍になり、自社株の購入などの特典でだいぶ利益が出た。6LDKのテキサスサイズの家を購入でき、子どもたちにもいい教育を受けさせることができた。