第二章 人生の変わり目

社内異動(五十六歳):技術部からマーケッティング部へ

六年ほど、技術部門でソフトウエアの開発に携わるが、関心が新製品や販売企画・大口顧客開発に移っていく。私が入社した時の筆頭副社長シュナイダーDick Snyderはすでに引退していたが、ランチに誘い出して相談。

私のいる技術部門の部長マッツMarilyn Matz に相談することを勧められる。マッツは、以前シュナイダーの部下だったので、彼から相談するように言われたと断ってから、私は殺し文句を述べた。

「私が一行プログラムを書くより顧客宛の一通のメール・一回の電話の方が会社にとっては価値があるのではないでしょうか」

マッツは、すぐマーケッティング部門の部長のテスタJustin Testaに電話をしてくれて、私の異動は成立した。マーケッティング部には営業部門出身の人は多かったが、技術部門出身はほとんどいなかったので、部長のテスタは私を歓迎してくれたのであろう。

シュナイダー、マッツ、テスタの三人は、この会社で、私を育ててくれた恩人であった。三十年経った今でも、まだメールの交換をしている。

その後引退するまでの六年ほど、マーケッティングマネージャとして、新製品企画・顧客との共同開発・営業部員のトレーニングなど、充実した時間を過ごす。日本への出張も年に三回ほどになっていた。

こういうことを言うと自信過剰だと言われそうだが、自分がその会社に就職できたこととその会社が自分を採用できたことの価値を比較すると、トントンよりやや会社が得をした方だったかなと感じている。

自分の職歴の中で十二年間も働いたのは、この会社だけである。会社の成長に寄与できたと感じている。会社の方もそれに見合うだけのことをしてくれたので、大いに満足。

社長賞を五回(個人賞二回、チーム賞三回)もらったし、それ以外の年は部長賞を何度かもらった。特許も、三つか四つ申請して認められた。

振り返ってみると、もしも石油会社の研究所にずっといたら平穏ではあったかもしれないが、これだけの手応えのある充足感は得られなかったと思う。

もう一つ重要なことは、私自身もこの十二年間で、単に技術開発だけではなく、製品として市場で成長していくためには、どのようなことを考え、誰と協力していくべきかという技術経営の勉強をさせてもらった。日本に帰国してから活用した。