序節 日本書紀の編年のズレ

第2節 我が国の暦法史概観・元嘉暦概論・儀鳳暦序論・後漢四分暦概論

さて、③によれば、7世紀初頭にも百済僧観勒が暦本や天文地理書を携えて来日し、この度は暦法を学生に教えている。観勒が教えたという暦法も、当時なお百済で用いられていた元嘉暦であったと思われる。陽胡史の祖、玉陳が暦法を習得したとされる。ところが、⑤が証言する通り、我が国は未だこれを公用とするには至っておらず、その後2年を経て、「始めて暦日を用」いたという(⑥)。しかし、その「始用暦日(始めて暦日を用ゐる)」ということの具体的内容は不明である。古事記崩年干支には、推古天皇の崩御日にのみ日付に干支が添えられているので、「始用暦日」の内容として、少なくともそれまで単に数値で数えられていた日付に初めて干支が充てられるようになったことが含まれていたことは疑いない。むしろ、単にそれだけの内容であった可能性が高い。

日付に大陸諸国が共通に用いていた干支を付すことにすれば、暦法の相違による混乱を防ぐことが可能になったに違いない。暦法の違いによってたとえ朔日が一日ずれても、日付干支が明示されれば、混乱が回避されるはずだからである。

なお、⑥には「正月戊申朔、始用暦日」と、誤った朔干支が記されているが、参考史料の2・3によれば、この部分はどちらも「正月朔、始用暦日」とあって、朔干支は記されていない。思うにこちらが原型であったのではないか。⑥は後に誤った朔干支が挿入されたか、日本書紀によって戊戌朔が挿入されたものの戊申朔に誤写された結果の史料であろう(第9節の注1参照)。

④によれば、持統朝に至って、690年に初めて元嘉暦と儀鳳暦☆2を行ったという。最初は元嘉暦を、次いで儀鳳暦を用いたとする伝え(⑤)もあるので、元嘉暦も儀鳳暦も、いずれもこの時以降、公用に供されたものと考えなければならない。④を、「従来用いられていた元嘉暦に儀鳳暦を併用することにした」という意味に解するのが従来説であるが、④はそのように受け取ることのできる文ではない。

持統元年正月に諸司に頒布されたという暦は(⑥)、すると、持統天皇の即位元年、つまり持統称制4年紀の正月に、同年11月の新暦施行に向けた準備段階における暦の頒布であったと考えられる。