序節 日本書紀の編年のズレ

第2節 我が国の暦法史概観・元嘉暦概論・儀鳳暦序論・後漢四分暦概論

これらによれば、我が国では欽明朝の六世紀の半ばごろには百済より暦博士が暦本を携えて交代制で来日していたのであり(①・②)、少なくともこの頃にはすでに大陸の(現行干支紀年法を伴う)暦法や暦学には接していたことになる。

百済は当時すでに現行干支紀年法を伴う元嘉暦☆1を用いていたのであるから、元嘉暦とその暦本などがこのころ既に日本に持ち込まれていたことは疑いない。

但し、言うまでもなく、暦博士・暦本の来日・輸入と、その暦術を公用として実用化することとは、次元の異なる事柄である。

元嘉暦☆1概論、平朔暦と定朔暦

元嘉暦は中国南朝の宋の元嘉20年(443年)、何承天が造り、445年から施行された暦である。1太陽年を222070÷608日として19年7閏月法に従う暦法である。

19太陽年=(12×19+7)平均朔望月=235平均朔望月によって、1平均朔望月=22207÷752日

元嘉暦はこの定数のもと、紀元前1613年つまり西暦-1612年の正月中(24節気の雨水)の0時0分が正月朔であり、かつ、その日のその時刻の干支指数が丁度0(甲子)であったとして計算を始める暦である(元嘉暦の上元は元嘉20年・443年から5703年前とされているが、計算を簡便にするため、朔時刻も日干支も共に元に戻る608(=19×32)年=222070日を6倍した3648年=22207×60日の後、つまり西暦-1612年を計算上の暦元とするのである)。

60=36480÷608で、1太陽年=(36480×6+3190)÷608であるから、1太陽年経るごとに正月中の干支指数は3190÷608増える。

西暦-1612年の正月中が起点の0甲子であるから、西暦a年の正月中の干支指数S(a)は、60を法として、S(a)=(3190÷608)×(1612+a)=(57+424÷608)+(3190÷608)×a

また1太陽年経るごとに正月中の月齢は、222070÷608-22207×12÷752=22207×224÷(608×752)だけ増えるので、西暦a年正月中の月齢G(a)は、

G(a)=22207×224÷(608×752)×(1612+a)±(22207÷752)×r

G(a)=(22207×544)÷(608×752)+(22207×224×a)÷(608×752)         

G(a)=±(22207÷752)×r

(rは、例によって、平均朔望月を加減して全体を平均朔望月より小さい正数に収めるための数であり様々な数値を取る)従って西暦a年の正月朔の干支指数Ⅰ(a)は60を法として、Ⅰ(a)=S(a)-G(a)として求められる。

西暦a年の各月の月朔の干支指数は、これに平均朔望月を次々に加えて求めればよい。