第一部

五男 忠司 ── 素晴らしき音楽家

筆者は、二歳から十歳頃まで辻堂の恵介の家にいたが、叔父や叔母と一緒についてきた年の近い従姉弟たちのことをよく覚えている。忠司の長男・望は私より三歳下で、とてもかわいかった。時には保土ヶ谷の忠司の家にも連れて行ってもらって、望の下のゆう子とも一緒に遊んだ。

そんな私を、「忍が大きくなったらダンスホールに連れて行ってあげよう」と、忠司が言ったことを覚えている。成長してからの私は、もちろん一度も連れて行ってもらったことはなかったが、忠司はいつも優しい叔父であった。八郎は母・房子と静岡に行って、恵介とは袂を分けたが、二歳上の忠司とは生涯仲の良い兄弟だった。

忠司は六十歳を過ぎると、東京の自宅の外に清里に別荘を作った。静岡で結婚した八郎と房子は、よく泊りがけで遊びに行っていた。政二の先妻の子である安子も、忠司はとてもかわいがっていたので、一緒に行っていたと聞く。私にも「遊びにおいで」と声をかけてくれ、行けばいつも歓待してくれた。

二〇一六(平成二十八)年十一月八日、八郎が九十八歳で亡くなったとき、当時百歳の忠司は、清里から静岡の葬儀場まで、長男・望の運転で駆けつけてくれた。

木下家の兄弟は、寛一郎、政二、敏三、恵介と上から順番に死んでいるから、次は自分の番だったのにと、弟・八郎の亡骸に涙を流していた。近々浜松に行く予定だったので、帰りに静岡に寄って八郎に会うつもりだったと、生きているうちに会えなかったことを残念がっていた。

それから二年後の二〇一八(平成三十)年四月三十日、兄弟の中で一番長生きだった忠司は百二歳の生涯を閉じた。

葬儀のときに、従弟の望は、三番町の自宅でほとんど食べなくなり、水しか飲めなくなった忠司の様子を話してくれた。

「浜松に行きたい、浜松に行きたい」と、懇願した忠司。三人の子供たちは最後の望みを叶えてあげたいと、寝たままの忠司をベッドから抱き抱えて車に乗せた。

「浜松に行くよ」と車を走らせたが、忠司は朦朧とした状態の中で、浜松までの道のりを思ったのか、「やっぱり無理だ」と言ったので、周りを走っただけで家に戻った。それから数日後に、忠司は息を引き取っている。

木下家の兄弟たちは、生まれ育った浜松が大好きである。忠司もまた、幼いときに父母の愛に包まれて育ったあの「我が家」のことを、死が迫っていたそのときまで瞼に浮かべていたのかもしれない。

三人の子供たちは、忠司の好きだった遠州灘の海に少しだけ遺骨を撒き、長男の望は、浜松気賀近くの墓地に埋葬した。

最後に、これはあまり知られることがなかったのだが、忠司が自らプロデュース兼音楽家として、製作した映画について記しておきたい。