第2章 信仰の根拠は主イエスとの 「霊の一体性」

この「血の契約の論理性」によらなければ、神様が期待する本来の、サタンに勝利する力強い信仰にはなり得ません。

イエス・キリストの血が自分の身体に流れていると知れば、「何に対しても恐れはなくなり、どんなことでもできる人」として「信仰の行い」ができるようになり、この霊の忠実さによって実際に奇跡(聖霊の働き)が起きるのです。

*キリスト教は、イエス・キリストの「十字架で流された血による罪の贖い(第1の義)」を、次に〔信じるという意思決定(信仰告白)〕で、神様・主イエスに「義と認められる(第2の義)」のですが、しかしこの状態ではまだ、信じる者の側からの「神様との霊の繋がり」を、救いの根拠として実感することはできません(天と地の乖離)。

救いの根拠が「十字架=罪の赦し」だけであれば、それは人が受け取る立場として受け身の関係性です。従ってこの解釈の下に、神様から選ばれて信仰に入ったとする、「勘違いの関係論(予定説/選別説)」が広がっています。

しかし「血の契約」を根拠として、イエス・キリストの代理者(第3の義)となり、「イエスの名」で命令して天の権威を発揮するなら、サタン・悪霊に勝利する約束が正しく実現するのです。イエスの十字架(罪の赦し)に頼りすがる霊的幼児のままであってはなりません。

全能の神様との霊の繋がりを「法的根拠」としなければ、「神の子とされた力強い信仰(第3の義)」に成長できません。それならばどうすればよいのでしょうか?

答えは簡単。イエス・キリストを仲保者とする「血の契約を結ぶ」ことです。しかしそのためには、重要な霊的基準があります。

*個人の霊性を追求するのが目的なので、どこか〔正しい教理として、奇跡を体現する純福音の教会〕で、霊的知識を学び直して、自分の強い意志を持って決断する勇気が必要です。必ずと言ってよいほど、この世的感覚、常識などを理由に、サタンが妨害してくるからです。周りの状況に左右されてはなりません。

「血の契約」は聖餐式の杯で象徴される〔よみがえって天で生きている主イエスとの血の交わり〕なので、その意義をキチンと告知する礼拝説教と、典礼式辞を述べる教会でなければなりません(第6章で詳述します)。

聖餐式を受けるには、「十字架の死(第1の義)を告げ知らせる)」のではなく、まずクリスチャンが「自分の霊的現状(第2の義に留まり第3の義に到達していないこと)」を吟味するのが目的です。

そしてその上で、杯を飲むことで、天で生きる主イエスと「血の契約」を交わした」と象徴体感するのです。