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第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷

唐の時代

五経正義ごきょうせいぎ』(二代皇帝太宗の命で作成された五経の解釈書)を編纂して、科挙受験者に対する儒教教育の徹底を図る。

唐時代は、「貞観じょうがんの治」とされて律令の選定、軍政の整備、領土の拡張に成功して帝国が繁栄し、三百年も続く。それでも唐末期には農民からの収奪強化や飢饉の発生、塩の専売による塩価の高騰などのために、農民の大規模な武装蜂起「黄巣こうそうの乱」が発生する。乱によって唐朝は滅亡に向かう。

いつの世も最後には弱い農民たちが勝利者となるようだ(映画『七人の侍』参考)。なぜなら世は支配者や簒奪者さんだつしゃによって成り立っているのではなく、一般大衆によって支えられているからである。歴史は名もない人々の人生の積み重ねともいえよう。

日本には、渤海使ぼっかいしが初来日する。最澄・空海や円仁・円珍らの遣唐が実施される。八九三年、遣唐使廃止の一年前、僧中瓘ちゅうかんが商人を通じて唐王朝の衰退について朝廷に報告している。

こうした国際情勢に関わる貴重な情報が、遣唐僧によって日本にもたらされた記録は極めて稀である。遣唐使派遣の中止を進言した菅原道真がこの情報を得ていたかは不明である。

当時の遣唐の目的は、ほとんどが軍事抜きの各種文献類や貴重品の入手にあった。その頃の日本はまさに文治主義の世であった。国防意識の低さは、戦後の今日と変わらなかったともいえよう。

阿倍仲麻呂あべのなかまろが科挙試験に合格して唐の高級官僚となって、李白、王維らと交わっている。