第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷

日宋間の朝貢関係

北条氏は、もともと平氏の流れをくみ、清盛が推進した日宋貿易への経験が引き継がれていた。清盛は、歴史的評価は低いけれども、以前の遣隋使や遣唐使とは一線を画し、交易を経済的側面から捉えた鏑矢的存在であった。北条得宗家がそれを引き継いだといえよう。

北条実時(さねとき)(金沢かねざわ実時とも)が中心となって築いた金沢文庫(横浜市金沢区所在、室町幕府や徳川家康がかなりの蔵書を持ち去っているが、まだ相当の数を残す)の蔵書や遺文などから、平安末期(一一四四~一一六〇)の薩摩の守は、平忠度 (たいらのただのり)、惟宗憲国 (これむねくにのり)、三善行仲、紀久長(きひさなが)(平は平氏派・惟宗は朝廷派)と交互に続いており、朝廷と平氏の間で配置が調整されていたようである。

鎌倉幕府成立前には島津忠久 (ただひさ)が守護を務めていた南九州の日向を北条久時 (ひさとき)に代え、「比企氏(ひきし)の乱」後には、日向・大隅を関東閥で非得宗家の千葉氏に与え、その後、再び北条得宗家の守護地としている。

また、幕府の高官や僧侶が宋や南島(琉球や奄美大島)に求めた夫人たちの装飾品・好嗜(しこう)品や仏典の目録なども残されている。

さらに、源実朝がその漢学趣味もあってか渡宋を計画して、来日していた陳和卿 (ちんなけい)(宋の石工で焼失した東大寺大仏殿の再興に当たっている)に大型ジャンク船建造を命じたが、失敗したとの記録も残されている。

このことは一所懸命と土地にしがみ付いていた鎌倉武士たちには考えつかない発想であり、実朝の人となりや珍和卿との関係を示唆していて興味深い。

尾張国が地元で、頼朝の御家人(家臣)であった千竈(ちかま)氏(『吾妻鏡』によると【承久三年(一二二一)千竈四朗・新太郎が宇治橋合戦で戦死した】)となっているが、後に北条得宗家の家来となって、薩摩河辺郡の地頭代官として現在の愛知県から奄美群島の沖永良部方面を結ぶ海上交易路(シーレーン)の管轄を任されている。

しかし、律令時代に指定されて薩摩や大隅の守護地頭を務めていた前任者と、後任の北条得宗家から派遣されてきた者の間に権限をめぐって争いがあったようである。