曽我兄弟、継父の元で育つ 兄九歳・弟七歳

さて、平家に与したために、在りし日の勢いをまったく失ってしまった伊東一門。ここに哀れを極めたのは、曽我の幼い兄弟であった。

曽我(現、神奈川県小田原市)の地には、曽我家にもらわれていった兄弟の哀れな逸話が多く残されており、我々はその中に、兄弟の生い立ちを垣間見ることができる。

――祐親が生きていた頃は、

「わたしは妻と子供二人を失った身。河津の女房、その子供らを預かって大切にしましょう」

と言っていた曽我太郎。しかし、祐親が打ち首となり、伊東が完全に滅びるに当たって、つくづくと考える。

「祐親に頼まれて引き取った兄弟だが……。この子らを家に置いておけば、いつ将軍の怒りを買うか分からぬ……」

頼朝という人物は偉くもあったが、反面、非常に疑り深いことで有名。滅ぼした平家などは、子供でも打ち首、生き埋め。果ては腹の中の胎児まで探し出して殺したというのだから、恐ろしいもの。

 ――もし平家に味方した祐親の孫をかくまっていると知られたら、どんな恐ろしい罰を受けるか…… 考えるだけで身の毛もよだつ思い。しかし、だからといって妻の連れ子を簡単に追い出すわけにもいかない。

散々悩んだ挙句、

「屋敷の中に、別棟の座敷を作るによって、兄弟はそこに住居せよ。寝食も家族とは別にする」

こうして、二人は家族からは遠ざけられて、別の建物に追いやられ、母にすら自由に会えない身の上となってしまったのだ。

――来る日も来る日も、兄と弟、ただ二人きり。心細さと寂しさは限りもない。肩身を狭くして、ひっそりと暮らす日々。

その上、兄弟にとって悪いことに、唯一の味方であったはずの母でさえ、曽我太郎との間に次々子が産まれたことから、その世話に追われて徐々に遠い存在となってしまった。今となっては滅多に会う機会もなく、しまいには召使ですら兄弟を侮って、厄介者扱いする始末。

しかし――いかに幼くとも、兄は兄である。この時、一萬はまだ八歳であったが、自分より小さい弟をかばい、父や母の分まで見てやらねばと、まめまめしく世話をした。もともと一萬は弟を溺愛していたようだが、孤独な境涯の中で己より幼き者はなおさらに愛しく、半分しか血の繋がらない弟妹たちの存在を見ては

「自分のまことの弟は、箱王しかいない」

と思うようになった。