プロローグ 富山大空襲を矜哀(こうあい)して

クラスター爆弾が空中で炸裂し、頭上からおびただしい焼夷弾が降り注いできた。咄嗟(とっさ)に母は裏手の石垣に両手をつき、祖母と二人の幼子を守ろうとした。その瞬間、母は背に焼夷弾をまともに受け四人とも息絶えた、……らしい。

生まれたばかりの嬰児は、母の乳首を(くわ)えたままだった、……と。立ち昇る火焔、黒煙、白煙を見た越中八尾の人々は、富山大空襲をなぞらえる。苦悶や怒りに支配された人々の怨恨(えんこん)煙火(えんか)が、青白い紫陽花(あじさい)のように美しかった、……と。

その日の朝、ヤケに空は青く澄みわたっていた。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

神通川の河原には無数の焼死体。地べたを這うように(とな)える念仏。遺体に群がるハエを追い払う叫喚。間断なき()(えつ)と鼻を衝く「すっぱい」生煮えの異臭。『阿鼻地獄』を彷彿とさせた。

昭和二十年八月二日未明。『富山大空襲』の被災状況(死者二七〇〇人以上、負傷者約七千人、罹災者約十一万人)、破壊面積九九・五%(米軍と富山市の資料を突合すると二八〇%)は、八月六日広島、八月九日長崎の原爆についで、地方大空襲としては最大規模だった。未だに、正確な被災状況は確定されていない。

米軍は、原爆とほぼ同じの形状・重量で通常の爆薬を詰め込んだ『模擬原爆:通称・パンプキン(かぼちゃ)爆弾』を、日本全体で約五十発投下した。そのうち、昭和二十年七月二十日(三発)、七月二十六日(一発)がB29爆撃機六機から富山市街に投下された。その六機の中に「エノラ・ゲイ(広島原爆投下機)」、「ボックスカー(長崎原爆投下機)」が含まれていた。これらの事実は、あまり知られていない。