第一部酒編

普通日本人なら「宝」という字を知らぬ人はいないでしょうが、「宝」はかつては、「寶」と書いたということをご存じの人は、少ないのではないか。……っていうか、そのような知識のある人は、阿辻先生ぐらいでしょう。

『遊遊漢字学』には、「寶」は、「宀」(家の屋根)と「(ぎょく)」と「缶」(酒壺)と「貝」(財産を表す)からなる漢字。すなわち、家の中に宝石と酒壺と金銭があることを表していると書かれています。

「玉」は希少な石とわかりますね。「貝」も財産を表す字に使われていますから、これもわかります。しかし「缶」は、「ほととぎ」とよばれる胴の中央が膨らんだ壺のことだとは知りませんでした。

中央が膨らんだ壺に何を入れて貯め込んだかといえば、これが酒だというのですから、驚きましたね。……っていうか、うれしいですね。

古の中国の人はまったくエライものですな。宝石と金銭はわかるとして、「酒」も貯め込むべき貴重品だと言っている。

阿辻先生は、古代においてはそれらはたしかに素晴らしい財産だったろうが、現代の目から見れば、それを「宝物」と考えるのはあまりにも即物的な認識であろうとおっしゃっていますが、私の考えは少々違います。

宝石や金銭にこだわるのは確かに即物的であるの指摘は免れないでしょうが、酒にひと時の安らぎを求めるのも即物的と断じるのは、あまりにも切ないというものではありませんか?

胴の中央が膨らんだ壺の中身の減り具合を気にかけた古の中国人の気持ち、私にはよぉ~く理解できますが……。

阿辻先生、いかがでしょう?