第一部酒編

李白、杜甫、白楽天は大酒飲みであった

李白、杜甫、白楽天といえば、中国唐代の三大詩人。今さら言うに及びません。

読者の皆さんは、この三大詩人がいずれ劣らぬ大酒飲みであったということをご存じでしたでしょうか。確か高校の漢文の時間に、先生が授業もそっちのけで話してくれたことをいまだによく覚えています。当の漢文の先生もきっと酒好きだったのに違いないと、先生のことが懐かしく思い出されます。

内容については、歴史と漢詩の解釈に関係することなので、正確に読者にご案内しなければと思い、図書館へ行って調べ直してまいりました。

どう読んで、どう解釈したらいいのかわからない漢字ばかり並べられた文をうんうん唸って読むつらさったら、二日酔いの朝なんてつらさのうちに入りませんよ。

そこで、『中国古典詩聚花 美酒と宴遊』(山之内正彦、成瀬哲生共著 小学館)に、三人の飲みっぷりについて詳しく書いてありましたので、しっかり勉強してまいりました。しかしエライ先生がいらっしゃるものですね。三人の残した酒の歌から、飲みっぷりまでわかっちゃうなんて……。

自ら酔吟先生と称した白楽天は、酒をこよなく愛しました。比較的少量の酒で陶然と酔うことができたといいます。私の場合は、当然と酔ってしまいますがね……!?

酔うことに心の平安を求めたのが白楽天。理性派といえましょう。

杜甫はどちらかといえば、わかりやすくいうところのヤケ酒派。飲めば飲むほど心の平安は向こうに追いやられてしまう。ヤケ酒を飲んでもなお酔いきれない。酔っ払ってもあくまでこの世の人であろうとしたのが、杜甫の飲み方。

苦悩派とでもいうのでしょうか。これはこれで、また凡人にはまねのできない飲み方ですよね。

李白は、杜甫がその飲みっぷりを仙人のようだと言ったくらいですから、飲めば飲むほど世俗を忘れ、酔郷をさまようことができたというではありませんか。超越派とでもいうのでしょうね。……うらやましい。

李白の飲みっぷりを仙人のようだと杜甫が詠んだ詩「飲中八仙歌」より、李白の部分を抜粋してお届けします。

李白一斗詩百篇 李白一斗詩百篇

長安市上酒家眠 長安市上酒家に眠る

天子呼来不上船 天子呼び来たれども 船に上がらず

自称臣是酒中仙 自ら称す 臣は(これ)酒中の仙なりと

酒を一斗飲む間に詩を百篇作っちゃうというのもスゴイですけど、天子からの招へいの使者がやって来ても、

「酒中の仙人に何の御用でしょうか、もう少し酔っ払っていたいのです。またにしてください」

って、カッコ良すぎますよね~!