庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか

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面は冷、背は煖、胸は虚、腹は実。儒学者佐藤一斎の言葉(言志四録)である。付け加える何もない。人として屹立している。儒者のなかには、支配学とも云われる儒教の教えの是非以前に、こちらが背筋をのばしたくなるような人物がいる。儒者=支配側の人間などでは決してない。このような左翼系理論は余り信用しない方がコトを誤らない。

さて、登山の際、高山植物の立ち姿に敬服してしまうことがないだろうか。求めるのは最小限の必要のみ、十分を決して求めない。高山植物の厳しくも慎ましやかな生き様は見事である。立ち姿は、「吾唯足るを知る」である。

第二章 文学する&哲学するのは楽しい

学問的な話も時にはいいもの、少し付き合ってくれないか?

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私に限って言えば、宗教の起源とか原始宗教の問題とかは、こうして生きている限りにおいては、私なりに頭のなかで整理をつけなければならない、避けて通れない問題として引き摺っている。

理由は簡単で、世の学者・研究者の説に満足できていないから、騙されてはならないと思うからある。私たちは、「自分の周りの存在に、自分と同様な精霊や霊魂が存在すると考えるようになった」という、宗教学者の原始宗教成立学説に長きに亘って付き合わされている。いわゆる「アニミズム」である。

よくよく考えれば、ホモサピエンスは小集団で狩猟採集という生存がやっとの「具象そのもの、直接性」のなかで生きていた。それが、自分の周りの存在に精霊・霊魂を感じるという「知能としての抽象性」を先ずもって獲得したなど、ものやことの順序としてあり得ない。この説のあり得なさは、素人でも分かりそうなことである。

原始人の身の周りには、超越的な巨大な山・巨岩等が存在した。また、超自然現象の、雷・雷光・雷鳴・火山爆発・暴風・豪雨・洪水・地震・地割れ・山鳴りが否応なく襲っていたに違いない。それらに怯え、恐れ、脅かされとうてい敵わないことを生理的に痛感させられる日常で、ホモサピエンスは自分たちを超える存在や現象に、畏敬・崇拝・祈り・依存等の原始的で生理的な宗教的感覚を、次いで抽象性を帯びる宗教観らしきものを持ち始め、さらには宗教的行為を持つというプロセスを辿った。私には、そう考えるのが「まとも」に思えるのである。