庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか

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そんな時代があってもいいのかもしれない、しかし私にはとてつもなく「つまらない」。庶民・大衆の品評会という様相で、どこででも拾い集めることができる「等身大の代物」が世を跋扈(ばっこ)している。

片や等身大で平凡な歌詞と歌謡のフォークソングとその亜流、片や等身大のジーンズルック、片やいつでもどこでも誰にでもの簡便料理やファストフード、検索で簡単に手に入る平均的簡便知識等々、「平凡・平板」と「等身大」と「変な平等」という「他人と同じが大好き」のオンパレードである。

昨今、個性が「偉そうに」とか「上から目線で」とかで、一刀両断されるから、ならばとことん無難な平凡路線でゆくぞ、といわんばかりである。でもなあ、音楽・文学等様々な分野において、他人と少し違う男女それぞれの「格好良さ」「おしゃれ」「色気」が必要だしそれと無縁なものばっかりなら、別に発信などしなくていいじゃないか。

そんなものなら、食って寝て排便する等身大日常と同じで誰でも簡単に紡ぎ出せるものであり、わざわざ他人から提供を受ける必要もない。私はそう思う。もう、ほんとに、平等な平凡に飽きちゃったよ。だって、いくら商売とはいえ、日本の殆どが、平凡専門店の特売場になってしまったのだから。

庶民でも、「片隅の美学」は必要でっせ。時代はそんな私の気持ちなどお構いなく流れるが、いずれ、もっとましなダダ・シュール風とか、「変なもの」が復権する時代も来るであろう。

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非凡たらんとすることが、凡庸なのである。非凡・凡庸を二項対立と考えるのが凡庸なのである。凡庸の反対概念は愚直である。愚直はいつも一人であり、大集団の愚直はない。何かピカッと来るものに触発されて、ひたすら平凡にやり続けて失敗したとしても、絶望ともニヒリズムとも無縁のところを歩めそうである。

過大な希望のないところに、非凡な大成功を求めないところに、愚直を続けるところに、絶望はないからである。庶民の意地の境地である。愚直の果てには、成功とは言えない程度の、小さな天の褒美が待っていてくれることがある。