第二章 文学する&哲学するのは楽しい

学問的な話も時にはいいもの、少し付き合ってくれないか?

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次いで、うた歌謡史の立場で、総論として概観すると次のようになろう。

弥生前期以降、稲作が広範囲に定着し、食べるだけに汲々としていた生活に、食料確保上の余裕が生まれる。他地域との交流・交易も生まれるなか、余裕と交流は、列島の住民に、今風に言えば、自分たちを全体のなかで位置付けて「客観視」する意識を生む。

はなしことばのレベルも「生活必需品」からの飛躍の羽根を持ち始める。

プレ歌垣・歌垣におけるはなしことばの掛け合いと問答は、次に詳述するプロセスを経て、うた歌謡へと飛躍を果たす。

日本列島のうた歌謡の最初の一滴はこうして、「ただの人」の口と頭から生まれ、最初に発語された(おそらく、最初の洞窟内の絵画も、打楽器らしきものから生み出されたであろう最初の音楽も、このように「ただの人」が生み出したものである)。

一方、人称の切り口で言えば、「共助」で生き延びてきたホモサピエンスにとって、人称感覚はボーダレスで2人称・1人称ない交ぜの非人称的であったはずである。それが、客観視点の獲得を経て、1人称(個)認識へ、さらに第三者の存在としての3人称確立へと歩を進める。

かくして、庶民発祥のうた歌謡は、古墳時代を経て個性と叙情を獲得し、後に、歌謡史の中流域の歌群をなす万葉集に見られる通り、権力者たちと周辺が“ものする”「より高度な歌」へと至り、やがては日本の歌謡の主流をなすようになる。

最後に、プレ歌垣・歌垣のなかで、うた歌謡はどう生まれどう進化するかについて、歌垣自体とうた歌謡への定形化と洗練の具体的各論を見ていかねばならない。

さて、必要に迫られたプレ歌垣・歌垣においては、男女出会いの場の設定が誰にでも分かる区切りをした公開の場所(公開性)で、秘することもなく参加者の見るなか(衆目性)で、恋愛成就(実用性)を求めて行われたはずである。