第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

第3節 小林一茶の場合

浄土信仰には「厭離穢土・欣求浄土」の考えが基本にあるから、どうしても厭世的な傾向を持ちがちで、第2節で見たように女性の場合は特にそれが顕著だった。そうした中にあって、小林一茶(一七六三~一八二七)は、浄土信仰によって死を諦観するとともに、他方で「業と無明」に翻弄されるこの世の生にも関心を持ち続けた点、いかにも現世主義的な江戸時代らしい。

幼児の死亡率の高さは前に述べたが、一茶もその憂き目に遭う。52歳の時に結婚した「きく」(当時28歳)との間に生まれた長男・千太郎に生後一カ月で死なれ、56歳の時に生まれた長女・さとも痘瘡で一年二カ月弱で亡くす。可愛がったさとの死の悲しみをテーマの一つとしたのが俳書『おらが春』である。

その末尾。「さて後生(ごしょう)の一大事は、其(その)身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申(もうす)ばかり也。」

このように決心したら欲心や悪心を決して持ってはならない。そうなれば「あながち作り声して念仏申に不及(およばず)。ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則(これすなわち)当流の安心(あんじん)とは申す也。穴かしこ。ともかくもあなた任せのとしの暮  五十七齢 一茶  文政二年十二月廿九日」(註:「あなた」とはその前の「あなた様」同様、阿弥陀仏のこと。『父の終焉日記・おらが春 他一篇』岩波文庫 一九九二年)。

ここには死を阿弥陀如来の計らいとして受容しようという安心立命観が表れているだろう。一茶の阿弥陀信仰の句は多い。

「蠅一つ打てばなむあみだ仏哉」「なむあみだ仏の方より鳴る蚊哉」「花ちるや称名うなる寺の犬」「弥陀仏の見ておはす也ちる桜」などがあるが、そもそも若くして江戸に出た一茶は、「六阿弥陀歩きでのある日ざし哉」と、春秋の彼岸会に行われた江戸六カ所の阿弥陀詣でをしているし、「お十夜」といって十昼夜念仏を称える法要の句も多い(※補註参照)。

一茶の信仰には父親や地域の浄土真宗の影響が強い。一茶の父親・弥五兵衛は熱心な本願寺派の真宗門徒で、69歳の時、「傷寒」(「今のインフルエンザ・腸チフスの類」『広辞苑』)で没するのだが、『父の終焉日記』にはその信仰の様が書かれている。「抑(そもそも)、床つき給ふ日より、朝夕の看経(かんきん)怠る時なくつとめ給」い、死の直前には大無量寿経の阿弥陀仏の四十八願中の第十八願の一節「至心に信楽(しんぎょう)して(=信じ願って)我国に生まれん」をうわ言のように引用して、浄土に「いざ行かん」と高らかに繰り返し唱えるのだった。