黒子の嘆き

保健師として働き続けた34年間、特に最後の約10年間は、交感神経を痛め続け酷使してきたことは事実だ。私にとったら、気が休まることが公私ともに無い時代だった。

「公私ともに気が休まることが無い」といえば、保健師に転職して以降はずっとそうだったように思う。

看護師の時は、その勤務が終われば仕事から確実に解放された。勤務中に受け持った患者さんは引継ぎをした後は別の担当看護師が受け持つため、もはや私が負うべき責任はない。だから、どんなに勤務中に悩ましいことがあっても、一歩、病棟を出るや否やたちまち身も心も完全に解放された。

勤務中が激務であればあるほど、心に羽が生えたような解放感を半端なく味わえた。あの解放感があったから、私のような「あたる看護師」と言われる「看取りに多く立ちあう看護師」でも、壊れずに働くことができたのかもしれない。

けれど保健師は違う。保健師は看護師のようにはいかない。一日の勤務が終了しても、受け持ちのケースを誰にも引き継ぐことはできない。24時間、365日、受け持ちのケースの担当は自分しかいないのだ。

先天性の疾患を持つ子の育児に悩み、子どもに手を上げそうになる親。寝たきりの母を介護する中で介護離職し自分も難病を患いながら疲れ果てる息子。感染性の結核を患い「俺なんか死んだ方が親戚も周囲も喜ぶんだ。これから遠くに行って死んでやる」と再三訴える一人暮らしの高齢者。離婚して帰ってきた娘が先天性の疾患を持つ孫をネグレクトすることに悩む難病の祖母などなど。

誰にも担当を引き継ぐことができない上に、絶えず見守りやサポートが必要なケースのことを考えると、保健師が仕事から解放されることはないように思う。看護師時代に満喫していた勤務終了後の解放感は、保健師になってからは拘束感へと変貌を遂げた。