4 精神的いのち

前項「生物学的いのち」のところで述べたように、キジバトは長めの材料を茂みの中に運び込むことを断念して新しい材料を探しに出かけました。人間ならばそこでどうするでしょうか。長めの材料の端っこを掴んで引きずり込むかもしれないし、長めの材料を半分に切って運び込むことを考えつくかもしれません。そして何よりもさまざまな経験を通して、どのような材料が巣作りに適しているかを新たに学習することができるはずです。

あらゆる経験を通して創意工夫を凝らし、想念を深め、高め、広めていけるのが大脳新皮質系の脳を授かった人間なのです。さまざまな経験を通して獲得した新しい手法やものの考え方は、そのままその人の精神的素養(学び蓄えた人間力)として蓄積されていくことになるのです。このように人間が後天的に学び培った精神的素養が、人間の生きてゆくという行為をたくみに織り成してゆく「精神的いのち」ということになります。

極端な表現をすれば、「人間は精神的いのちによってこそ人間になれるのである」ということになります。この精神的いのちは、後天的に創られていく可能性としての素養であり、人間の育ちや学びの次第でいかようにでも拓けていく計り知れない可能性を秘めたいのちの領域なのです。しかもこの精神的素養は、知識技術や想念が単純に累積的に積み重ねられて増加していくのではなく、類化的に成長していく性質をおびていることを忘れてはなりません(図C参照)。

[図表]類化

つまり、育ち上がった自分の心の色合いで、次なる新しい学びを解釈して積み重ねていくということです。同じ経験をしても、人によって受け取り方が量的にも質的にもさまざまに異なってくるのはそのためです。さらにまた、この精神的素養の獲得には決してないがしろにできない適時性(ちょうどよい時機)があるということも忘れてはならないのです(詳細は「三精神的いのちの創生」で述べます)。