【前回の記事を読む】人間のいのちには「生物学的いのち」だけではない、「精神的いのち」がある

 人間のいのち

このように、自動車の「エンジン“Engine”」・「ハンドル“Handle”」・「ドライバー“Driver”」と、人間の「生理的いのち」・「生物学的いのち」・「精神的いのち」を対応させて考えてみると、やっぱり人間の場合も、三拍子揃って初めて人間の生きてゆく営みの原動力(いのち)となり得ることがよく分かります。生理的いのち(生物学的いのち・生死のいのち)だけが人間のいのちではないということです。

しかしながら、昨今の人間社会においては、第一義的な生理的いのち(生死のいのち)ばかりがクローズアップされて、進化の頂上にいる人間のいのちの全体像がよく見えていないような気がしてならないのです。昨今の人間社会のトラブルの多くは、人間のいのちの全体像がよく把握できていないことに起因しているのではないかと私は考えています。

人間とほかの生きものたちとを分かつものは、人間だけが授かった精神的いのちをおいてほかにないのです。したがって、人間独自の「精神的いのち」をどう自覚し、どう創り上げていくかということこそが、わたしたち人類に課せられた喫緊の最重要課題であると私は考えているのです。サン・テグジュペリの格言の通り、「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」のですから。

2 生理的いのち

生理的いのちとは、いわゆる「いのちあっての物種」という場合のいのちのことで、人体の諸々の生理作用(呼吸・血液の循環・消化作用・体温調節等々の無意識裡に繰り広げられていく生命現象)の原動力のことです。口絵(第2回記事 図表1 参照)に見るように、この生理的いのちは生物学的いのちの下位構造的性質のものだという意味で、多くの場合生物学的いのちに含めて考えられているようです。

生理的いのちは、最も原初の脳である脳幹・脊髄系の脳の働きによって醸成される生命現象で、わたしたちが意図的に操作することのできない自発的ないのちの営みです。

生理的生命作用は、口絵に示されているように億年前の魚類・は虫類の時代までにでき上がった生命現象のことで、言わば人間のいのちの根っこに当たる部分だと言えましょう。わたしたちは今でもその原初のいのちを礎にして生かされているのです。

わたしたちは人の生死を見極めるとき、この生理的いのちの状態(呼吸、体温、脈拍等)を手がかりに診断していきます。いのちの根っこである生理的いのちの停止が、人間のいのちの終焉(死)を意味するのです。

生理的いのちの終焉が人間の死を意味するわけですが、だからといって人間のいのちを生理的いのちだけで捉えるのはどうかと思われます。生理的いのちは、あくまでも人間のいのちの根っこの部分であって、人間のいのちのすべてではないのです。根っことしての生理的いのちから栄えてくる枝葉(生物学的いのち)や花実(精神的いのち)のことを忘れてはならないのです。

生物学的いのちや精神的いのちについてはのちほど詳しく述べていきますが、ここではまずいのちの根っことしての生理的いのちについて具体的に見ていきます。