第1章 神様との関係性の正しさ=「義」について

第3の義

ここで言いたいことは、教会の現状として、未信者を信仰に導く伝道アプローチとしての、「十字架の働き〔第1の義〕」は全く正しい認識だけれども、一旦イエス・キリストを信じた人〔第2の義〕にとっては、次の霊のステップ〔聖霊の働きを実現する第3の義〕に引っ張り上げる、「神様の意図としてのキリスト教」ではないという現実です。

この「第2の義」に停滞して、「第3の義」に至っていないことが霊的幼児であると、パウロは《「ヘブル」5:12~6:3節》で苦言を呈し、学びを促しているのです。

それは「十字架の罪の赦しと贖い」の教理段階では、教会がクリスチャンに〔「神の義」を実践する信仰を自分の喜びとして行うところまでに、「聖霊の力を実践する権威」を授けられない〕からです。

**十字架の目的には、神様が聖霊をくださるその保証と根拠が備わっていません。だから「十字架は初歩の教え」なのです。より多く霊的祝福を受けたい人は、聖書を学んで知識を得なければなりません。キリスト教は個々人の自由意志の行動の結果です。

*連綿と続いてきたキリスト教が、このように「十字架を根拠にする入信条件の知識」に留まっているから、聖霊を受けたら「イエス・キリストと同じ働きをし、更に大きいわざをなす」と約束されている聖書を信じきれないでいます。

「ヨハネ」14:12

絶対に確かなこととしてあなたに言う。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またこれらよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです(著者注:主がすべての権威・名前の上に立つ勝利者となるから)。

それどころか聖書を霊的に読み解かない結果として、「現代には奇跡は起きない」とか、「医療が発達したので、癒しは不用だ」などと、神様の「永遠の救い(聖霊の働き)」に背く告白をしてはばからない不義を主張するのです。

これはイエス・キリストを信じると言っていても、聖霊を否定することにほかなりません。すなわち「神の三一性」を否定しているのです。

その態度は、「聖霊のバプテスマ」を授かっていないことを、自ら証明しています。十字架の意義〔罪の赦し・贖い=第1の義〕だけを、いつまでも信仰の根拠にしているのであって、「敬虔さを示そうとして罪の悔い改めのつもりで、いつまでも「私は罪多き者です。」と告白することが〔的外れ〕であることが分かっていません。

その「真理をつかみ取っていない解釈が、霊的間違いである」と悟っていないことにおいて、約2000年前の布教当時に、ガラテヤ人が割礼に惑わされたことと同じであり、パウロが「ガラテ」3:1節で、「愚かなガラテヤ人」と書いた知識レベルと一緒です。

*クリスチャンならば、霊的立場が第2の義になっているのだから、悔い改めの焦点を、「第3の義に至らない自分自身の未熟さ」に定めなければなりません。

正しい救霊定理の知識を知らないことを、神様は、『旧約聖書』「ヨブ記」で明らかにしているのですが、人々は古来より「ヨブ記」の解読に失敗していて、《旧約聖書の神は「懲罰を下す恐ろしい裁きの神」である》として、神の霊が教えようとすることとは「正反対の神認識」が連綿と伝えられてきました。

その原因は、主人公ヨブを「信仰者の極み」として読み進んでしまうからです。清廉潔白さ(人としての正しさ)と、全能神への信仰の霊性とが、全くの別物であることを知らないから、混同して間違うのです。「悪から離れた生きざま」は、不信仰者もできることです。

旧約聖書で裁かれているのは、神に逆らう不信仰者たちです。信仰者は祝福を受けこそすれ、ゆえなく罰せられることは絶対にありません。必ず人が問題の発生源です。

「ヨブ記」は神様についての正しい知識によってこそ、「義=神様との正しい関係」となることを教えているのですが、ヨブにはその正しい知識がなく(=噂で得たもの)、「彼と3人の友」の間違った討論(神認識論)が、正しい解釈であるかのように誤解されてしまっています。彼ら4人は「間違った神認識」を、「ヨブ記3章~31章」で、互いに長々と主張し合っているのです。

彼らは最終章で、主から「悔い改め」を要求されて、その結果ようやく「義」とされました。

彼らの霊性(神認識)では、自分は信仰者のつもりでいても、危急の時に際し[絶対に救われる「確証=神様への信頼」]を持っていなかったのだから、神様の目から見ると明らかに「不信仰」であって、正しい知識で「信じ直す」ことが必要なのです。それが聖書でいう「悔い改め」です。

【前回の記事を読む】クリスチャンは「自分が創り上げた信仰」を認識するべき