【前回の記事を読む】仕事から帰らない夫。電話を確認すると何十件もの通知!? その相手は…

第一部 私と家族と車イス

ともに永遠に

道中では、ドクターヘリの搬送の時点でなんとなくもう元の体には戻らないことくらいは理解していた。低酸素血症なのか高次脳機能障害なのか……。人工心肺でも付けているのか、もしくは蘇生中なのか。まだ小学2年の長男と年長の次男になんと説明したらいいんだろうか。まだ歩けてもいない1歳の三男をおんぶして、行き先は病院だなんて。

事故の知らせから次から次へ想定した見えない不安が一気に押し寄せて、ハンドルを握る手は、いつもより握りしめ、子どもたちには騒がず、焦らず、シートベルト着用したまま大人しくいるように何度も注意した。

長男は夏休み中。つい数日前に花火大会に行った思い出と、メダカの成長観察日記を書いた。稚魚も誕生して自由研究も順調に大詰めに。そんな普段の生活からいきなり、父親の死に目に会うことになるかもしれない……と想像もしたくない考えがよぎるのは当然だろう。でも、あの時はまず子どもの前で

「お父さん病院みたいだわ、行かなきゃだからなんせ行くよ〜」

と笑顔だったはず。

「ねーどうしたん?」

と子どもたちに何を聞かれても答えず、救急の待合室に着いてもおんぶした子どもや長男次男が脱水症状にならないように自販機で買った飲みものを渡した。きっと長男は察していたように思う。警察官に呼ばれた母親を目の当たりにしていつもと異なる情景に静かに座っていた。笑いもせず、次男に座ってとうながしていた。

たまたま救急には、看護師の友人がいた。私に気づいてくれた。友人に夫の意識レベルだけ教えてもらい、それでも冷静だった。待つこと1時間、いやもっとかもしれない。看護師の友人には誰でもいいから親族を呼べとも言われた。

待っている間、1分でもいいから、説明の前に顔だけ見たいなと思ったり、子どもたちになんて話そうか、明日から仕事に行けるのかなと思ったりした。

ようやく医師説明に呼ばれた。レントゲンを見ても、冷静だった。頸部の脊髄は潰れたり折れたりした骨で圧迫されており、脊髄はほそぼそしており、さらには骨折も複雑に粉砕している。これは元に戻る可能性はない、なかなか希望が持てないことが嫌になるほど理解できた。不全にしても完全にしても頸部脊髄損傷の診断なのだと理解できた。

やはり脊髄損傷と告げられた。麻痺が残る体に夫はなってしまったんだという受容しなければならない事実と、夫もなりたくてなったわけではない事実とを同時に噛み砕き受け止める作業が重くのしかかったのだ。

写真を拡大 花火会場と家族