第一部 銀の画鋲

「刺繍の本」

「こんにちは、ここはワルツさんの本屋ですか」

聞いたことのない若い男性の声だ。これは僕がいないと仕事にならない。

僕は机の下から出た。明るい巻き毛の婦人と、整った顔立ちの男の人が扉の前に立っている。

「僕はコランといいます。妻が少し具合が悪いので椅子に掛けさせてもらってもいいですか」

妻と呼ばれた女の人の唇には色がない。肩も小刻みに上下していて息が苦しそうだ。ワルツさんが差し出した肘掛椅子に夫人が座ると、コランはバッグから水筒を取り出して銀色の匙で彼女に水をきっかり二匙飲ませた。

「クロエ、もう少し飲みたいだろうけど我慢してくれるね」

夫人はかすかにうなずいた。

コランはひざまずいたまま言った。

「彼女は日に二匙しか水を飲んだらいけないってお医者からいわれているんです」

ワルツさんは、黙って深くうなずいた。

「クロエは奇病にかかっています。肺の中にスイレンの花が咲くのです」

肺の中に咲くスイレンの花か。世にも不思議な美しい病気だ。

「本を探しに来たのですな」

「ワルツさんの本屋のことは、僕の家に住み着いたハツカネズミからさんざん聞いて知っていましたが、ここに着いたのはまったくの偶然です」

「スイレンの花以外の花の香りを嗅ぐとクロエの痛みが治まるので、道端や野原に咲く花を求めて歩いていたら、その花たちが全部枯れてしまって僕は途方に暮れてしまいました」

「気がついたら目の前にこの本屋の扉があったのです」

本屋に花はないが少し休んでいったらいいとワルツさんは言い、ミルクを持ってくるようにカトリーヌに頼んだ。

コランはゆっくりとミルクを飲み干すと、落ち着いた声で言った。

「とても美味しかったです。ごちそうさまでした。クロエがこれを飲めたらよかったんですが」

コランはカトリーヌとワルツさんにお礼を言い、クロエの肩を優しく撫でた。

「また、花を探して歩きます」

「クロエ、行こうか」

クロエはゆっくり立ち上がった。