第一章 阿梅という少女

関白さまからは再三にわたって小田原参陣を促されていたが、伊達さまは奥羽平定に大忙しだったし、それに実は伊達家中は小田原参陣をめぐって二つに割れていたらしい。参陣すべしとする側と、北条方に(くみ)して豊臣側と徹底抗戦すべしとする派であった。

伊達政宗さまはお殿さまの一言で、小田原参陣を決意なさったのだ、と聞いている。

「殿はまだお若いのですから、今は豊臣勢と戦うよりも一度は膝を屈してもよいのではないでしょうか。まだまだ先がございます」

なにしろ徳川さまも前田さまも関白さまに臣従を誓っておられて、お二方からも参陣を促されておいでだったというのだ。お殿さまの進言で、伊達さまは決断されたという。豊臣方と敵対することは、とてもとても危険なことだったらしい。

関白さまは翌天正十八(一五九〇)年小田原を征伐して、ついに全国統一を成し遂げられた。そしてその翌年、関白の職を豊臣秀次さまに譲り太閤となられたのだ。

だがそのわずか八年後の慶長(けいちょう)三(一五九八)年八月、六十三歳で鬼籍のひととなられたのだった。命の定めのなんと儚いことであろう。亡くなられるほんの五か月ばかり前には、盛大な醍醐(だいご)の花見があったばかりというのに。

ずんつぁまの熱弁で、わたくしはまるで共に花見をしたような気分になる。ずんつぁまは語る、そしてその後のなんと慌ただしいことであろう、と。亡くなられてたった二年後には、統一された全国の大名を二つに割って慶長五(一六〇〇)年九月に関ケ原の戦いが起きた。徳川さまが大勝利をおさめられ、三年後の慶長八(一六〇三)年に征夷大将軍となられて江戸幕府を開かれたのである。伊達政宗さまは慶長十三(一六〇八)年、幕府から陸奥守に任ぜられたのだった。

だがまだ豊家(ほうけ)は健在だった。そして慶長十九(一六一四)年十月、幕府から大坂討伐令が発せられたのである。大坂城へ向けて進軍が始まったのだ。