プロローグ

目が覚めた時には辺りは薄暗かった。どのくらい時間がたったのか分からない。家に帰らなければと、不安が胸に立ち込めた。早く帰りたいけれど、その前に翼君に会いたい。ここにいても何も始まらないと部屋を出ることにした。

ドアを盾にするようにして顔を覗かせて、リビングの様子を見渡す。部屋は静まり返っている。まどろんだ静けさとは違って、この場を支配しているのは張りつめた緊張感だ。本能的に私は雰囲気に呑まれるように息を殺した。身を潜めてにじり進んでいく。ソファーの物陰に一度身を隠し、そこから周囲を警戒するように顔を覗かせると足が見えた。

足から体をたどるように視線を動かしていく。そこに座っていたのはお母さんだった。その首にロープが一周回っていた。お母さんはピクリとも動かなかった。私は悲鳴を上げることもできず、その場に崩れた。おそらく死んでいると幼い私でも理解できた。死んだのなら、もう動くことはない。

勝手に再生される記憶。今、思い出しても震えてしまう。震えを抑えるように、自分自身の体を守るように腕を抱えた。大丈夫。知らぬ間に乱れた呼吸を整えるように息を吐く。けれど次の瞬間が再生される。リビングから火が出ていた。その中で彼のお母さんが蠢いていた。悶え苦しむ火の塊が私の方へ手を伸ばす。生きていたなんて知らなかった。怖い。焼かれたくない。死にたくない。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

私は両目から涙を流しながら、後退った。怖くてたまらないのに、喉元で声が固まって、音にならない。かすれた声がたどたどしく謝罪の形になる。どうにか逃げようと勝手口の方向へ足を向けた。ドアノブを握ったところで、もしかしたら近所の人に助けを求めれば、お母さんは助かるかもしれないと頭をよぎる。

でも私は何もしなかった。一度だけギュッと目を閉じた。家はすでに火にまみれて周辺が騒がしくなっていた。

「ごめんなさい」

私はその場から自宅まで走った。背負っていた私のランドセルが鳴っていた。私は翼君のお母さんを見殺しにした。

何日か経った後、私の両親は翼君のお母さん、鳥居美晴さんが事故で亡くなったと言った。翼君も間もなく転校したらしい。けれどニュースではお母さんは焼身自殺だったと伝えていた。すぐにチャンネルは変えられてしまって詳細は知らずじまいだった。

私の両親はなるべくニュースに触れさせまいとした。私はショックのあまり入院することになったからだった。退院後は学校も転校することになった。思い出しても仕方がない。流れていく時間の中で考えないように心に蓋をすることしかできなかった。