一九四〇(昭和十五)年十月、除隊した政二は満鉄に職を求め、江蘇省開封で房子と所帯を持った。政二は二度目の結婚で三十四歳、房子二十歳のときである。

結婚して間もなく、政二は同じ中国に兵隊として来ていた弟の忠司が、盲腸炎をこじらせて少し離れた病院に入院している知らせを受けた。政二はすぐに、新妻の房子に、忠司のいる病院に食べ物や着る物を持って行かせた。

近くと言っても広い中国、着物姿のうら若い房子は何時間も汽車に揺られて行き、初めて夫の弟である忠司に会った。忠司が退院するまで数回通っている。

その後商家出身の政二は、山形の農家出身の部下が穀物を集めて軍に卸す仕事をしているので、手伝うように軍の上司だった人に言われて、妻の房子と、生まれて間もない長男・誠司を連れて、中国西南部の一面に麦畑が広がる江蘇省徐州市に移った。

政二は経理を担当していたが、部下が日本に帰国したあとの店を譲り受けることになった。政二は中国人、日本人の従業員十数人を雇い入れて、「木下洋行」と名付けた穀物商を営んだ。

親が汗水流して働き「尾張屋」を大きくしていったのを見て育ち、働いた経験を生かした政二は、軍にだけでなく、大阪の貿易商を通して、日本に米、麦、大豆などの穀物を送る仕事を手広く行った。