7、8(さい)児童(じどう)でも忠孝(ちゅうこう)のために()()てることもあることを()ることは、日本(にほん)固有(こゆう)(うつく)しい風習(ふうしゅう)であります。

これは、歴代(れきだい)天皇(てんのう)がこの忠孝(ちゅうこう)大切(たいせつ)にしたことであり、それが習慣(しゅうかん)として(なが)時間(じかん)経過(けいか)しているのは、()(なか)(みだ)れないようにするためという理由(りゆう)があるのではないでしょうか。

風習(ふうしゅう)(うつ)()わり、国民(こくみん)がただ自分(じぶん)知識才芸(ちしきさいげい)にだけ(ちから)()れて、忠孝(ちゅうこう)仁義(じんぎ)()てて自分(じぶん)功績(こうせき)利益(りえき)ばかりに(とら)われ、最後(さいご)には仁義(じんぎ)忠孝(ちゅうこう)(なん)なのかということを()らないということになろうとしています。

それでは()(みだ)れという弊害(へいがい)は、(はた)してどこで()めることができるのでしょうか。

(いま)幼児(ようじ)知恵(ちえ)はまだ(さだ)まっていません。習慣(しゅうかん)として()()いているものも、まだ(あさ)状況(じょうきょう)にあります。

この時期(じき)にまずは仁義(じんぎ)忠孝(ちゅうこう)(みち)(おし)え、それがしっかりと習慣(しゅうかん)となり、性格(せいかく)成長(せいちょう)していけば、これによって忠孝(ちゅうこう)がさらに(あつ)くなり、(ひと)(つね)(まも)るべき(みち)は、これによって(ただ)しくなります。

風習(ふうしゅう)()陛下(へいか)国民(こくみん)(みちび)美徳(びとく)によって(まさ)古代(こだい)美徳(びとく)()()して、世界(せかい)の中で(ぐん)()いた、(すぐ)れた人物(じんぶつ)成長(せいちょう)することになるでしょう。

陛下(へいか)(かんが)えが(こま)かいところまで真心(まごころ)()くしているのは、この(とお)りであります。

(だれ)感激(かんげき)しない(もの)がいるでしょうか。

すなわち文学(ぶんがく)諸員(しょいん)とお(たが)いに相談(そうだん)して、慎重(しんちょう)古今(ここん)歴史書(れきししょ)などから()言葉(ことば)(おこな)い、(ひと)(つね)(まも)るべき(みち)道徳(どうとく)(かん)して、幼児(ようじ)児童(じどう)適切(てきせつ)なものを(えら)()し、(あつ)めて訂正(ていせい)(くわ)えて(たてまつ)ります。

(はずかし)ながら陛下(へいか)御閲覧(ごえつらん)(たま)い、出版(しゅっぱん)して国民(こくみん)(ひろ)()らせることができました。

嗚呼(ああ)今上(きんじょう)陛下(へいか)()(うれ)国民(こくみん)(あい)している御心(みこころ)(ふか)い。よって(おし)えを()けて(ひと)(みちび)くための方法(ほうほう)()()くことができました。

ただ、(わたし)()(がく)(あさ)くて知識(ちしき)(せま)く、その結果(けっか)陛下(へいか)(かんが)えに(まん)に一つ()うに()らないところがあれば、そのことを(ふか)(おそ)れかしこまる理由(りゆう)がここにあります。

けれども、(ほん)()(もの)が、この(ほん)によって道徳(どうとく)(もと)知識(ちしき)(すえ)であること、(ひと)(つね)(まも)るべき(みち)(さき)事業(じぎょう)(あと)という、本末(ほんまつ)先後(せんご)(みだ)れてはいけないことを()り、これを(おし)(ひろ)めることを(おこた)ることがなく、努力(どりょく)して自分(じぶん)(しょく)()くしていけば、その結果(けっか)陛下(へいか)(かんが)えに(ほう)じて(くに)(おん)(むく)いることに(おい)(ただ)しいことに(ちか)いといえることになるでしょう。

さらに気持(きも)ちを(たか)め、(とく)(ちから)によって(ひと)(みちび)き、それによって道徳(どうとく)をわきまえた(ただ)しい品性(ひんせい)(そだ)てること、すなわち(おし)えを(みちび)(ひと)に、これを理解(りかい)してもらうことを(のぞ)んでいます。

明治(めいじ十四ねんかのとがつ