第二章 幼学綱要を読む

【忠節(ちゅうせつ)・第二】

○国史

太平記たいへいき巻第かんだい三、巻第かんだい十六など)、増鏡ますかがみなど(赤坂あかさか千早ちはやたたかい、桜井さくらいわかれ、湊川みなとがわたたかい)

【19】「楠正成(くすのきまさしげ)」

正成は、そう言って拝礼をして帰り、赤坂に城を築きました。

笠置の地では守備がまだ整わず、兵隊がわずか五百余名の時に敵兵に攻められました。

ついに、城は敵の手に落ち、陛下も囚われの身となります。さらに敵兵は勢いに乗って赤坂城に大軍で押し寄せ、山には兵隊が満ち溢れ、谷まで埋め尽くす状況でした。

敵兵は赤坂の城が小さいことを見て、油断しながら、いきなり攻めてきました。

しかし、正成は戦いの度に計略を使い、敵兵を罠にはめて常に勝利しました。

それから、敵兵が城を囲み約一月が経とうとした頃、城の中では食べる物がなくなり、外からの応援の兵隊もなく、ついに、城は敵の手に落ちてしまいました。

その際、正成は、こっそりと城を抜け出し、金剛山に隠れることにします。

元弘二年三月、北条高時は後醍醐天皇を隠岐の島に移動させました。

四月になると、正成は金剛山を出て、兵隊五百名を引き連れ、赤坂城を攻めて敵の武将ある湯浅定佛を降伏させました。

この時に護良親王が吉野の城に身を寄せていました。

三年二月、敵兵は大軍で千早城や赤坂、吉野を攻めてきました。敵兵の勢いは激しく赤坂城は落ち、吉野も敵に奪われてしまいました。そして、敵兵の多くが千早に集まってきます。

その兵隊の数は、八十万といわれました。正成は、わずか千人余りで、これを防いでいました。

その時、新田義貞が兵を集めて一気に鎌倉幕府を滅ぼしてしまいました。