特に「尾張屋」が大きくなり商売が安定してからは子供たちには鷹揚で、映画を観るお金や遊ぶお金は自由に使わせた。子供たちは、店の金庫から好きなだけお金を持っていってもよかったのである。子供たちを信じ、才能のある子には、それを伸ばしてやるための努力も惜しまない親であった。

周吉は毎日の仕込みのために、明け方誰よりも早く起きて大きな樽に大根と糠と黄色い食紅を入れて、手で押しても押し切れないので、裸足にビニールを巻き、立って漬け込んでいたと、六男の八郎は覚えていた。背の高い大きな周吉が働く姿であり、それは使用人を雇えるようになっても続いていた。

またあるときは、大きな鍋の中で大きなヘラを回しながら、汗だくになりながらエンドウ豆の佃煮を作った。人を使うには、まず自分が率先して働かなくてはならないという信条を、周吉は持っていた。

日中戦争で出兵している兵士がいた頃、周吉は浜松の田舎に土地を買って梅の木を植えた。梅が実ると、小学生の八郎に荷車の後押しをさせて連れて行った。梅干を作って煮つけ、赤い汁をガーゼに染み込ませてビニールで包み、着替えなどと一緒に慰問袋の中に入れて戦地に送った。兵士はそれを舐めていると、口が渇かず疲れも忘れられ、故郷を思い出したそうである。

周吉は満足に小学校にも通えなかったので、漢字が書けなかった。八郎は学校から帰って来ると、周吉に漢字を教えた。初めて書いた「父」という字を、八郎は額に入れて生涯大事に持っていた。