【前回の記事を読む】昭和映画の巨匠・木下恵介…知られざる生家の事情に迫る

第一部

祖父母 (周吉とたま) ──尾張屋のはじまり

祖父・周吉は、曾祖父・治平のように誰にでも優しかった。汲み取りに来た人を家に上げてご馳走するなど、貧しい人に対する思いやりが人一倍強い人であった。

祖母・たまについては、子供の頃から頭の良い人であると先に書いたが、都会的で商才がある人で、「尾張屋」を発展させた。商店街を歩くときは、他の店から声がかかると必ずその店に寄る。小間物屋であれば足袋とか帯締めなど、本屋であれば便箋や小筆など、ちょっとした物を買っては、近所の人に愛想良くした。

すると、「尾張屋」に来る人も増え、いっそう繁盛した。

たまは、外出するとき女中さんを一人ずつ順番に連れて行き、食べ物屋で好きな物をご馳走した。子供たちにも、天婦羅や鰻やお寿司など気前よく食べさせた。木下家の兄弟たちの舌が肥えているのは、そんな子供時代があったからなのだろう。

またたまは、恵介が好きな映画の道に進むための後押しを惜しまなかった。松竹の上司たちに店の手土産品だけでなく、いろいろなお使い物を届けて頭を下げたり、巻き紙に小筆ですらすらと何通もの手紙を書いて頼んだりしている。

恵介はのちに、「あんな理想的な夫婦はめったにいない。僕にとってはある種の憧れである」と言っている。

木下家の中で一番長寿で、二〇一八(平成三十)年に百二歳で他界した音楽家で五男の木下忠司は、一九四五(昭和二十)年の浜松大空襲で、生まれ育った我が家が焼失したことを中国からの帰還後知った。

次のページに忠司の作った詩『我が家』を紹介する。